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安心は「神話」 ①

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「天地創造は神話ではない。列記とした事実である」という人がいる。聖書を信じる人もだが、聖書の記述が真実である確証はない。ここに来たある人が、「人の数だけあるものことが【事実】」。「誰が、何時、何処から見ても、たった1つの結果となるものことが【真実】」とし、「貴殿は女性週刊誌並みの寄稿などせず、真実を投稿し給え」と拙者のブログ批判をした。

他人の批判はその人のものであるから好きにいえばよい。「私は真実しか書かない」などの自己宣伝も好きにやればよい。そうであるなら、人の戯言を茶化すなどは無駄な徒労であり、茶化してどうなるものでもないが、己の自尊心を満たしたいがために人はそれをやる。あることを自分が調査・研究の果てに、さらに真実と認められるために物的証拠を提示する必要がある。

「STAP細胞はあります」という科学者の自賛には笑えたが、口でいえば「ある」ことにはならないのは百も承知発言するところが女性らしい。女性を卑下・揶揄するのではなく、男がそんなことをいおうものなら血祭りにあげられる。女性に甘い点からしても世は男社会か。いかなる反論に能弁に応えようと、証拠を提示しない限り社会では相手にされない。

「STAP細胞はあります」とカワイクいった小保方氏は、まるで半泣きべそかき状態の小学生のようで、科学者といえる人物ではなかったし、それからしても博士号の剥奪は本人のためだった。今後、生きて行くためには仕事に従事せねばならないが、彼女には、「足るを知る」がなかった。女性にとっての真実とは、自身の問題であって客観的な視点ではないのだろうか。

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科学の分野では何より学術誌が最高権威といえども、人が選ぶなら、間違い選びもあろう。人が人に騙されるのは世の常人の常。朝日新聞の広告が権威をもった時代もあったが、最近は何もかもが軽薄な時代となっている。「大学教授」や「医学博士」といった肩書の人が登場する健康番組や広告・CMを目にすることも多いが、これ自体が権威の凋落と映る。

「お金をもらえば何でもします」という芸能人教授や芸人博士が増えてしまった以上、「信頼」というのは自らの眼力に委ねるしかないのかも知れない。「権威効果」、「ブランド効果」が蔓延る時代になってしまった昨今だ。大学教授も医学博士も御笑い芸人と変わらないように見える。起用側も権威やブランドが人の認知を歪めることは知りながらの確信犯か。

「○○大学医学部と共同で開発したダイエットマシン」、「米国の一流大学教授も注目する脅威のサプリ」、「肌のことを知り抜いた医学博士の研究から生まれた美顔器」など、権威効果をうたえば物は売れる。こうした似非科学や、権威信仰にたよるのは、広義の詐欺商法に思えてならない。騙す人、騙される人、どっちが悪い?買春と売春の理屈と同じこと。

どちらが正しい?といいたいが正解はない。すべては選択である。「選択」の前に、「自己責任」もいる。100回いおうと自己判断しない人は100回騙される。自己責任で騙されるのならいって行くとこはない。それでは弱者(頭の弱者も含む)被害がかさむ。ゆえに悪辣商法は規制して取り締まるべきだが、だからといって騙す奴が地球から根絶することはない。

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「石川や、浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽くまじ」という有名な言葉がある。「この世から泥棒がいなくなることはないのよ。海辺に無数にある砂粒が無くなろうとも…」と、石川五右衛門が親切に注意喚起してくれた。にも関わらずである。五右衛門の死は1594年なので、あれからもう430年あまり。野坂昭如も、「差別は絶対なくならない」といっている。

「人は差別されるのを嫌うが、差別するのは好きだから」という注釈付きで述べていた。どちらも、「嫌い」にならない限りはダメだろう。政治家や官僚の贈収賄がなくならないのも同じ理屈で、人間がお金を、「嫌い」にならない限りはダメかと。お金が嫌いな人はいないが、政治家の嘘や詭弁がまかり通るのも癪に触る。倫理やモラルで規制はできない。不倫も同様だ。

人間の判断力は極めていい加減である。ある事件、ある人物、ある作品について判断する場合において、多くは自分の欲する、あるいは利する側面しか見ていない。利害にかられない、「全面的な判断」の大切さは理解はすれど、実際にそれができるかどうか。会社は株主のものだが、創業者がこぞって我が子に世襲させる。「何が悪いんか?」と言わんばかり。

世の中はそんなものだと誰もが知っている。人間は小心であるがゆえに自己を束縛する。他人の顔色、世間体を伺いながら、それに配慮をしながら、言葉で丸め込めるとタカをくくる。ユニクロの柳井氏が息子を二人取締役に置きながら世襲を否定した。既定路線さえ作っておけば、あとはどうにでもなるという魂胆が見え見えなのは誰もが分かっている。


断固世襲否定の創業者は既定路線さえ作らない。ばかりか、息子を自社へ入社もさせない。ブラック企業というのは、経営者の腹の黒さでもある。何から書き始めたか忘れたので書き出しに戻ると、「天地創造」だった。これは明らかに非真実というか神話という物語であろう。旧約聖書の『創世記』には、神によって世界が創造されたその次第が物語られている。

古代ヘブライ人による創造神話の書き出しは、「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名すけた。夕となり、また朝となった。第一日である」。誰がこの事実を知っていたのか?

古代ヘブライ人によるところの神話はこうなっているが、新約聖書のキリスト伝記の一つとされている『ヨハネによる福音書』の書き出しはこうなる。「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。

説得力のある論法だ。福音書の作者は、キリスト生涯の叙述を始めるにあたり、天地万物が神の言葉によって創造されたとする旧約聖書の『創世記』を持ち出している点からオリジナルとはいえない。後に続いて彼は、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」と述べ、さらに少し間をおいて、一章の四四節には次の有名な文句を書き記している。

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