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信仰と思考 ③

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宗教を信じる者と信じない者との違いはなんだろう。それぞれに生き方の違いがでるのだろうか?自分の周囲には様々な宗教を糧に生きる者はいるが、特別変わったところもなく、話が合わないこともなく、いつどのような時にどのような形で違いがあらわれるのか、意識したこともない。宗教を信じてどのような得があるのかがさっぱり見えない分からない。

神を信じる者と信じない者の違いはなんだろうか。自分は神を信じないが、それだけで無神論者とはおこがましい。「論」の意味を考えればわかろう。無神論者というのは、宗教について無知無関心の人を指すのでもなければ、ただ単に神の存在を信じないというだけでなく、神の存在を否定するために戦い続けている人のことだが、戦う対象はのほとんどは自分であろう。

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若いころも今も分からないのは、神とか仏とか、人間を超越したものの前に、人間は自己否定せざるをえないほどに、自己に絶望しているというのか?新興宗教にはいった友人に入信の動機を聞いたら、「なんとなくよさそうだったから」という。「何がよさそうなんか?」、「やっぱ、ご利益があるような気になったのかも」、「ご利益ね~、神頼みってやつだな」。

確かに人間を超越したものは凄いとは思うが、ご利益があればの話だ。神を信じないものは、そこが基本的に違う。ご利益なんか宛にしない。初詣などで神社の賽銭箱に1円や10円を投げるやつに聞いたことがある。「そんなはした金でいいんか?願いを叶えて欲しいなら1万円くらい入れたら?」というと、「期待してないからだよ。100円でももったいない」。

なるほどご利益は期待はしていないといいながら、それでも神仏に手を合わせるのは慣習的なものもあろう。神社の境内には賽銭箱があるなら、とりあえず入れとこか、なる心境のようだ。自分は父の法事にも出ないし墓参りもしない。出るのもするのも行為自体は容易いことだが、それをあえてしないのは慣習と戦う気概と、無神論者としての自負である。

母親は、「親不孝者」と詰る。勝手に詰っているがいい、墓前に手を合わさずとも父への想いは誰よりも強しとの自負もある。まあ、これは自負などという下種なものではない、真正なる思いである。「信じる心が大切」という。真の思いは形に現さずとも存在し、自身の中に存在するなら披露も無用である。法事や墓参りを喜ぶ父ではないと、我もまたしかり也。

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蓮如は浄土真宗の信徒の在り方をこう述べている。「当流の念仏者を或は人ありて、『何宗ぞ』と相尋ぬる事たとえありとも、しかと『当宗念仏者』と答うべからず。ただ、『何宗ともなき念仏なり』と答うべし。これ即ち我が親鸞聖人の仰せおかるる所の仏法者気色見えぬ振舞なるべし。この趣きをよくよく存知して、外相にその色をはたらくべからず。(蓮如『御文章』)

この言葉のなかに、およそ自己の立場や思想を述べんとする時の基本的な心構えが見えよう。信仰というのは、それはまず、「隠されてなさるべき行為」である。人に見せるためのものでもなく、宣伝すべきものでもない。自らの心に秘め、ないしは僅かな人々の間でだけ密かに営まれるべく行為であるが、大衆化されるにつれて何がしかの詭弁を伴っている。

すべての宗教は大衆化を望む。そうでなければ意味はないようだ。事実、大きな宗教は全国にくまなく組織を張り巡らせている。宗教の危険性や危惧はここにないのだろうか?あとは各自が想像すればあえて書く必要もない。一言添えるなら、親鸞に宗派を建てる気持ちはない。キリストしかりで、宗派も寺院も教会も存在せぬのが、宗教の純粋さに思えてならない。

神の実在を知るのは至難である。だから信じないのではない。至難を軽々に信じることこそ不可解と無神論者は感じているが、彼等は至難だから信じるのだという。どこまでいっても平行線だが、信者の論を突き詰めて思考するに、、すべては不安定なるが故の小心から発している。一刻も早く、神の存在事実がもたらされるべきである。それまでは聖典や古典を語るがよかろう。

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が、こういう状態が2000年以上も続いている。「神よあなたはどこにおわす」と叫んで死んでいった多くの信者をよそに、神は永遠に沈黙を変えようとしない。いかに敬虔な信徒といえど、求信途上において、虚栄に見舞われぬものは稀であろう。信仰そのものが迷いの所作である。最も神聖な筈の祈りのはずなのに、なぜに信徒たちは、人生の痛苦や病苦に際して祈るのか。

煩悩の深さか、知識の禍か、愛の不足か。信ずるということはどういうことなのか。「根拠の見えぬものは信の対象とならない」といえば、「根拠の有無は関係ないのです。ただ、信ずるものが救われるということです」。「信ずるものがどう救われるというのか?」、「心が救われるのです」と、大概はここに落ち着くのだ。信仰という言葉は確かに美しい。

が、隠すことよりも、露すことに宿命的強制力をもつ現代文明にあって、信仰は多くの危険を潜ませているように感じるのだ。「何が危険なものですか」と信徒はいうが、「本当に信じたいから疑うのだ」という言葉が、これほど通用しないとは驚きであった。「信じる」の対義語は、「疑う」である。疑わずして信ずるのを、「妄信」というのではないのか。

「私達には(疑うなどという)邪心はありません」。ここらあたりで、「左様でござりまするか」というのが妥当であろう。「他人の罪を責むるなかれ」と、宗教は教える。が、同じ宗教者としての立場からあえて「他人の罪を責めてみよ」といいたい。社会的影響とか道義的責任という程度のものでなく、人間の本性に徹して、徹底的に責めてみよといいたい。

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なぜそういいたいのか。責むるものと責められるものとが紙一重の危うさに生きることで、いずれがいずれか分からなくなるほどにまで罪を責めてみる。そのことで同じ宗教的立場に帰結するのではと愚考する。「人に石を投げるな。誰からも石を投げられず、人に石を投げられる人間がどこにいよう」。偽善的言葉を多用する宗教が偽善に思えてならない。

蓮如の言葉は古く、当代のものであるが、仏教も時代の変遷とともに大きく様変わりした。「先祖を敬え」などと親鸞は一言もいってはないし、阿弥陀仏を本願とする如来信仰である。それからすれば、法要は何のためになされているのか?お寺さんはそうは言わぬが、利潤を得るためである。利潤を得て何が悪い?ならば、利潤を得るためといってもよいと思うのだが。

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