自尊心を守るための思考はよくないというのは成り立つ。そもそも自尊心とは、自分の存在自体を自身で愛おしいと思え、本当の意味で自分を大切にできる感情であり、自尊心が高い人は正しい自己評価でき、自信と安定感がある。文中の、「本当の意味で自分を大切に」や、「正しい自己評価ができ」という点からみて、これに該当するしない自尊心もある。
自分の考えが正しくないと知りながら、それでも譲れないのは自尊心を超えたナルシズム的自己愛といえる。たとえば、自己を正当評価できないために他者から低い評価を受けたことで自己を卑下したり、人目を過剰に気にしてムリをしたり、自分をつくろったり、背伸びしすぎたりなどが起こり得る。誰でも自己への愛は持つが、自己愛は成長過程のものである。
大人になっても自己愛が強いままだと、「自分ほど立派な人間はいない」などの驕り高ぶった人間になる。かといって自己受容や自己肯定感が弱いために他者からの受容や肯定や大切にされることを過剰に求めるあまり、構ってちゃんや甘えん坊や面倒をみてほしいなどの幼児的依存心が生まれ、常に人からチヤホヤされたい、好かれたい、賞賛されたい人間となる。
「本当の意味で自分を大切に」といったが、自己愛が強いままだと自分可愛さから自分を甘やかし、努力や苦労を放棄してしまうことにもなる。自身の問題点から逃げて何でも他人のせいにしたり、感情的になって相手を責めたり、自らの責任から逃れようとするあまり、自己防衛が強く働くことになる。批判や否定に弱く、他者からの指摘を極度に嫌う傾向になりやすい。
話を信仰に戻す。日本に宗教戦争なるものは起こっていないが、仏教徒が政治的な勢力となって時の支配者と争い、活躍した時代はしばしばあった。現憲法は「政教分離」を打ち出しているが、宗教が政治と結びついて策謀なることは絶対に避けねばならない。宗教に教義は不可欠だが、教義を理論としてのみ覚えこみ、様々な宗教理論を振り回すのも好まない。
偏見かも知れぬがこういう考え方を持っている。つまり、無神論者であろうと、宗教の上辺は知識として備えているなら、我々の中で宗教的欲求が起こらないということはない。ならば、起こった時はどうすべきか?心むなしくし、本然の姿そのものに祈ることになろう。本然とは自然のままで手が加わっていないこと。死者に手を合わせ、弔う時のような姿をいう。
我々の元の姿は、「本然」である。「本然の性」とは、中国宋代の儒学者によって提起された思想で、すべての人が平等に持つ天から与えられた自然の性をいう。人間が純粋にそのようになれるのかという疑問は湧くが、疑問が湧くということが、問題意識を掲げていることになる。物欲の激しい人間が自身の物欲に問題提起をすれば、少なからず改善はされよう。
確かに問題意識を持つのは容易い。後はそれをどう行動で具現化していくかにかかっている。信仰をもつことは、もつ人にとって善いことであるが、信仰をもつ人が、もつ人にとって善くないこともある。それは何か?信仰を「私事」としてはならない。これが大事ではないか。これまで世に出た傑僧とされる人物は「私事」なることに厳に戒めてきたであろう。
あらゆる時代のすぐれた宗教改革者とは、既存の宗教を否定し、私事なることを戒め、その本然の姿に没入することを教えてきた。日本に宗教改革者はいないが、広義でいうなら本居宣長はそうかも知れない。宣長といえば『古事記伝』、『日本書記』の付録のような扱いの『古事記』に光を当てた。彼が強調していることは、「我が神ながらの道」――
遠き古事記の時代に神々あった我々の祖先から示された在りのままの姿…、我々はそれを美しいと思い、懐かしく回想して、その神々の教えのままに自ら生きて行く。そういう生きざまのなかに祖先の魂が乗り移り、その魂のまにまに我々が暮らしていくのだ。それでいい、何も難しい理屈などいらない。一切の「私」を去れと、宣長はいっているのだ。
本居宣長の名は知るが、何をした人なのかを知らぬ者、意外と多しで、自分も勤務先の同僚から同じことを言われた。彼は、「面白いよ、宣長」と、宣長フリークであった。いろいろなことに興味を抱くには友人、知人の存在は多分に大きい。宣長は言葉を変えれば排他的である。たとえば、自分は神道だから仏教を否定するといえば、その神道は私のもの。
自分は仏教だからキリスト教を蔑むことになれば、仏教は私のものになる。「信仰は縄張り争いではない」とし、ゆえに一切の政治性を排除し、人間の自らなる心のままに委ねたるところに宣長の真姿があった。もし、宣長が現代に生きていたなら、日本の神道をもっとも冒涜した者は政治権力に利用され、養護された超国家主義的な神道自身と指摘するだろう。
『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』の著書丸谷才一は、宣長が熱烈な恋愛至上主義者であったことを知り、俄然、親近感を覚えたという。恋愛は誰でも好きだ、国学者宣長とて例外にあらず、近年の国政政治家しかり。なかなか面白そうな本のようだが、横着というか、「書を捨てよ町へ出よう」というわけでもない。本はもう増やしたくない理由もある。
宣長の教えは「自然(おのずから)の道」であり、「私」の思慮分別によって解釈してはならない。仏教や儒教や神やその他の思想を欲しいままに歪曲してはならぬという教えである。であるけれども、「私」を滅却することの難しさは巷に散見される。奈良の大仏で知られる東大寺の上院院主(実質No.2)が、女性の胸を触ったことで11月9日に書類送検された。
上院院主は69歳のじっちゃんで、相手は20代のぴちぴち女子大生だというが、これがもし60代のたれチチばーさんだったらどうだったのか?そりゃあ、なるだろう。入れ歯をしていようが、腰が曲がっていようが、女性は女性である。強制わいせつは、強制であれば成り立つから、ばーさんが被害届を出せばの話。女子大生は出しても、ばーさんは出すだろうか?
「たら」をいっても仕方ない。上院院主は格下げ処分すればいいこと。そっちでやってくれ。ついでにいえば、親鸞の「自然法爾」は如来の道、宣長の「直毘霊」は神ながらの道を説く。どちらの道も念願するところの根本は同じ。ただし、神ながらの道を議論分別したり宗教的に固定したりは、神ながらの道を汚すものであると宣長はこの点についても述べている。