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いじめが増加している

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何ということだ。これだけいじめ問題が言われながら、それでもいじめが増加傾向にあることに驚かずにいられない。文科省が10月26日に発表した調査結果によると、2016年度に学校で認知されたいじめ件数が前年度より9万8000件あまり増加し、32万3808件だったことがわかった。新聞各紙の見出しもそれ一色となったが、手をうっているのか、打つ手がないのか、どっちなのだ。

■いじめ過去最多、9万件増の32万件…16年度 読売新聞(10月26日付)
■文科省:学校いじめ最多32万件 小学校で急増16年度 毎日新聞(10月26日付)
■いじめ認知 最多32万件 小学校で57%増 日経新聞(10月27日付) 
■学校のいじめ把握、32万件。自殺、過去30年で最多 朝日新聞(10月27日付)

内訳は、小学校は23万7921件、中学校は7万1309件、高校は1万2874件、特別支援学校は1704件。小学校と中学校については調査を始めた1985年以降、もっとも多くなっている。ただし、いじめの認知件数については注意が必要で、いじめの統計調査については、調査対象や調査方法の変更、ならびにいじめの定義の変更などにより、認知件数は大きく変わってくる。

また、社会状況が影響する場合もある。2015年7月、岩手県矢巾町で中2男子生徒がいじめを苦に自殺した事件を契機に、文科省が調査のやり直しを指示した。それによって、認知件数が当初の集計より3万件も増えたという。それにしても、32万件というのはショッキングな数字で、急増した原因は上記した調査方法の変更にもよるが、いじめが多いのは間違いのない事実。

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これまでの、「悪ふざけ」という見方を改め、いじめにつながる恐れがあるケンカやふざけ合いなどについても、「いじめ」として、文科省が各学校に積極的に報告するよう指導しているのも、いじめのない学校が良い学校(校長・教頭にとって)、いじめのない学級運営は良い教師という見方がいじめを悪ふざけと見る教諭の自己保身がいじめを見逃すことになった。  
 
上述の岩手県のほか、宮城県や青森県などでいじめを苦に自殺する子どもが相次いだこととを受け、文科省が学校や教育委員会に対し、徹底した対応を求めた結果ということになろう。いじめに関して文科省がいかに真摯に向き合おうとしているのは伝わってくる。それにしても、数字というのは具体的である。地域や教委の話が出たついでに種々のデータを羅列する。

都道府県別に児童生徒1000人当たりのいじめの件数を見ると、全国平均は23・9件となっているが、京都府が96・8件ともっとも多かったのに対し、最も少なかった香川県は5件と、両県の19倍以上の差というのに要因があるのだろうか?京都人は陰険なのが多く、香川には温和な子どもが多いということか。2013年の調査においても京都は断トツの99.8件である。

京都といえば柔らかな言葉からほのぼの感漂う人間を連想するが、昔から京都は嫌われやすいという事情がある。書店では『京都ぎらい』という本が売れているらしく、世間一般に京都に対するネガティブなイメージが定着しつつある。【京都人だから分かる、京都のここが嫌い!特徴的な性格が原因?】というサイトには興味深いことが書かれていた。

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 1. 京都が1番だと思いすぎる
 2. 裏表が激しい
 3. 排他的な気質
 4. 碁盤の目がわかりにくい
 5. 住所が長い
 6. 歩道が狭いのに違法駐輪が多い
 7. 路上駐車が多い
 8. 夏は暑く、冬は寒い

この中でいじめに関連する項目は2.3であろうか。2について書き主の解説によると、京都人は上品で一歩引いて相手を立てる人が多い。その反面、京都は本音と建前の文化。表面はニコニコして愛想が良くても、裏では何を考えているかわかりません。思ったことをハッキリ口にする大阪人は、最初はキツく感じるかもしれぬが、裏表がなく付き合いやすさを感じる。

3については、京都人は排他的であまりよそ者を認めない。同じ京都市民でも、碁盤の目から外れた、「洛外」と呼ばれる右京区、西京区、北区、左京区、伏見区の出身者を京都人と認めない人もいる。私は右京区出身なので、碁盤の目の、「洛中」出身の先輩から、「右京区なら京都人は名乗れへんわと言わました。同じ京都出身者に対しても排他的なのです」。

なるほど。こういった地域偏見はどこの地方にもあると思われる。愛知の三河人から聞いた話だが、川向こうの尾張住人から、「三河の百姓は帰れ、帰れ!」といわれたという。まあ、子ども時代の話だが。同じ広島県でも広島市民にとって福山市民は岡山人というイメージがある。東京都においても23区外の三多摩などは、東京都民でありながらも肩身の狭い。

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京都で驚かされるのは、初めて来店するお客の入店をお断りする、「一見様お断り」のお店が京都には数多く存在するが、ここにも排他的な気質が見え隠れする。いじめというのは排他性である。県民気質とは関係ナシに、いじめは人として最低な行為であるから、京都人にそれが抜きんでているというのは、排他性以外にも何がしかの要因があるのかもしれない。

差別は永遠になくならないとした野坂昭如の言葉は重いが、人の世でいじめは永遠になくならない。被差別部落差別解消のために、国をあげた同和教育が実施が大きな成果をあげた。いじめについても学校も教育委員会も積極的に取り組んでいるが、「人をいじめる人間は最低のクズ」と号令する家庭教育も大事。「いじめ」い」に備える躾(教育)というのは存在するのか?

「いじめをやめよう」が声高に叫ばれたところで、いじめが増加するだけなら、「いじめられない教育」を重点的にやるのはどうなのか。「人をいじめない教育」それ自体は、実体的には子どもが日々の生活のなかで、ストレス状態に追いやられていることへの処方箋と見るが、家庭における「勝ち組」優先志向が、子どもにストレスを増加させているのは間違いなかろう。

これもいじめ増加の一因と考えられる。確かに人をいじめるのある種の快感はある。人は快感を求め、だからいじめが発生する。人をいじめて何の得があるかについて、単純に快感である。分別のない人間は、無分別さでも得られる快感を求めるだろう。分別なき人間には、罪の意識などあるはずもない。「いじめはよくない」とうってみても、こんな快感の何がいけない?となる。

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思慮分別(善悪)というのは、幼児期から徹底的に仕込んで身につく。幼児期を甘やかせ、善悪良否を曖昧にして分別は身につかない。いじめの危機感は学校でなく親がもつべきかと。人をいじめる、人にいじめられる、双方の危機感を親が持つ。テストの成績や勉強の評価ばかりが先行し、「他人の不幸は蜜の味」という快感に、親は無意識に加担しているのでは…?

「学校が悪い、教師が無能、教委が無策」。いじめ自殺をした子どもの親が実感する気持ちはわからなくはない。が、そこに「親の無策」は入らないのか?学校で起こったから学校の責任というより、いじめは構造的な問題を孕んでいる。何事も、「対策」というのは後手であり、学校や教委に対策ばかり要求するではなく、対策無用の、先手・先手の子育てが重要では?

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