「不治の病」とされた多くの疾病も、医療の進歩で治癒率があがった。「不治の病」を本人には告知しないのが良いとされた。不治であるがゆえの配慮という考えだが、これは生命を愚弄しているといわれだした。人には死ぬ権利と生きる権利の他に知る権利がある。すべての権利が義務を伴うように、知る権利という義務は、事実を受け入れるという義務であろう。
医師の告知義務がいわれた当初、それでも医師は患者を選んだ。年端もいかない子どもへの告知はあまりといえばあまりだから、保護者に向けられるが、現代人は性に露骨になったように死に対しても露骨になった。医師は告知義務を盾に、「あなたは末期がんで、余命は数か月」と告知する。告知されたものはその日に向かって生きる権利を最大行使する。
偽善者は性について極力隠匿をするが、「死」を前にして自己を見ようとせぬものは、死の隠匿者であろう。儒者をして、「色を好むは真の情」と言わしめるように、久米の仙人が、川で洗いものをする女の脛の柔肌に見とれて墜落したという逸話が伝わっている。逆説的な言い方をするなら、久米の仙人は墜落することで、真の求道者たり得たといえよう。
この伝説は「性」の勝利を意味してはいない。求道と快楽を分けて考えることへの風刺である。人間は神ではないし、聖人君子といえども下半身の所有者であって、生の対話なきとことに一切のものはない。神に反逆した人間の歴史こそが、人間を人間と有らしめてきたといえる。神や仏を含む目には見えないもの、存在の確定しないものはこの世にごまんとある。
いずれも、「ある」か、「ない」ではなく、「信じる」か、「信じない」かというものだろう。うずれか数の多きが真実に近いというものでもなし。「ある」と信じる者と、「ない」と信じる者が言い争う必要もないが、相手を認めないばかりに言い合う場面は頻繁に見た。「ある」と信じる者は、「ある」根拠を探すべきと思うが、「ない」と信じる者は根拠なしに、「ない」といえる気楽さがある。
なぜあるべきなのか、あった方がいいのかに理由を聞いたことがあるが、その人にはそうなのかと思うくらいで、自分には必要性が伝わらなかった。何事においても、必要か不要かというのはそうしたものだろうし、死後の世界も同じものだった。自分は「死後の世界はある」という人に多くの質問をしたが、それに対するすべての答えはいい加減なものだった。
「死んだ人はみなそこに行くのか?何の目的で?」
「目的ではなく決まりです」
「目的ももたず毎日何をしているのか」
「何もしないでただそこにいるだけです」
「目的もなくただウロウロするだけではつまらない」
「そんなことはないです」
「自分の魂だから自分でわかるけど、そんなところに自分は居たくない」
「慣れますよ」
と、こんな調子だから説得力などあったものでもない。「将棋やスポーツはできないのか?」、「ぺっぴんさんはいないのか?」、「脱出できないのか?」、「自殺はできるのか?」などとくだらないことを聞いてみたが、同じような調子で答えるので、おおよその見当はついてはいたが、「あなたは想像で言ってるのか?それとも確信なのか?」とあらためて聞くと、「確信です」といった。
自分は確信とする人間の確信的根拠をあえて聞こうとは思わなかった。聞いたところで、つまらん返答が予測でき、それを聞きたくないと思ったからでもある。何かを信じる人に、信じる根拠というものは、「ない」ことが多い。根拠がなくても、「私は信じる」という言い方は結構聞かされたし、それを言われると反論するのがバカらしくなる。人が何を信じようと勝手なのだ。
信じる根拠を人に説明することなどできそうもない。だから上記のやりとりは、根拠がなくても語れることなのかと…。ついでにいうなら、何かを信じるパワーというのはすごいものである。息子が人を殺めた。確定証拠もある。本人も認めた。それでも、「私は息子が殺ってないと信じる」という母親の意志・信念のようなものかと。信じるものを犯すことはできない。
他にもある。実体験ではないが、他者から耳目体験した。いい加減な彼氏に貢がされ、金ヅルにされている女に、「騙されてると。明らかに」といくら言っても、「彼氏を信じる」という女。若かった自分は、「バカじゃないんか?目を覚ませよ」と言えば、「バカでもいいんです。信じていますから」。また、女性を宗教を脱会させようと必死になったこともあったが、力及ばなかった。
「マインドコントロール」という強烈なパワーに太刀打ちできるものではないのは実感させられた。捨てられるまで彼氏に愛されていると自覚をする女がいるから、男は調子をこいていられる、騙していられるのだが、騙されたと自覚する前にいくら言ってもそれはダメというものだろう。あまりの男の態度に不安は過ることもあろう、自身の罪を認識することもあろう。
が、それを認識することが怖いのだ。罪の意識は、己を罰する意識を伴うものだが、人は自分を正当に罰することはできないし、でき得るなら罰したくない。人が自身に抱く罪の意識(内なる罪悪感)をもつとき、それを打ち消すための外的要因から目を背けようとする。こういう自己救済は絶対に避けるべきだが、そこで使われるのが「信じる」というものだ。
宗教にもこれと似たような部分がある。宗教を信じていても難しいのは罪の問題で、人は常に救いを欲しがるが、その救いを願う動機はいうまでもなく、罪悪感である。宗教の最大の危険がそこにあるのは、思考すれば分かる。人は罪の意識を持つことによって、巧妙に自己を飾るし、宗教はそのことに手を貸している。「懺悔」で許されるものなのか?
告白による自己安心や罪の帳消しを計らう打算の心と見受ける。罪をいつまでも思い煩って過去にとらわれるのはよくないことだが、宗教という魔力に頼らずとも、日々の仕事に献身し、我が身を使役し、額に汗をし、然る後に熟睡する以外になかろう。酒も飲めず宗教に無縁の自分は、罪の告白や帳消しにおいて、無言の対象を見つけるしかなかった。
信仰を安易とは言わぬが、宗教には安易な部分がある。勿論、人にもよることだが、安易な人間を自覚する自分は宗教は遠ざけるのがいいと生きてくると、「祈願」と印字されたハチマキその他の神頼み調度品は、無神論者には滑稽なものに見える。神や天に願掛けするのは人間らしさかも知れない。が、無神論者がそうとあっては、自らを滑稽と言わざるをえない。