5日午前9時半時半ごろ、島根県出雲市知井宮町の会社員、原圭司さん(50)方で、原さんの母親の安枝さん(82)が血を流して倒れているのを訪ねてきた親族が見つけ、119番通報した。出雲署員が原さんの妻の圭子さん(46)も同様に倒れているのを見つけたが、いずれも死亡。県警は任意で事情を聴いていた原さんの次男、聡悟容疑者(21)を6日未明に安枝さんに対する殺人容疑で逮捕した。
県警によると、聡悟容疑者は「祖母をハンマーで殴って殺したことは間違いない」などと供述しているという。逮捕容疑は5日午前7時35分ごろから同9時半ごろにかけて、安枝さんの頭などをハンマーで殴るなどして殺害したというもの。凶器とみられる金属製ハンマーが屋内で見つかったという。聡悟容疑者は圭子さんを殺害したとも供述しており、県警は調べを進める。
原さん方は死亡した2人のほか、原さんと聡悟容疑者、長女の計5人暮らし。安枝さんは1階の階段脇で、圭子さんは2階で倒れていた。2人は原さんらが家を出たあとに襲われたとみられ、発見時には誰もいなかった。事件後から、同居する聡悟容疑者と連絡が取れなくなっており、県警が行方を捜していたところ、5日午後に出雲市内の路上で発見。任意で事情を聴いていた。
朝一で目に入ってきた悲惨な事件に驚くことはなかった。子が母を殺そうが、孫が祖母を殺そうが、驚かない時代だから、「またか…」という正直な気持ちだった。上の朝日デジタルの記事では聡悟容疑者の身辺が不明で、おそらく無職をとがめられたかと想像したが、読売新聞(YOMIURI ONLINE)によると、聡悟容疑者は高等専門学校生であるのが分かった。
とうとう島根でもこういう事件が起きたか。島根出身としては悲しいな。犯人に同情するわけではないけど、若い世代は古い世代に叩かれまくる地域だから追い詰められたのかもしれないが、殺しちゃダメだわ。きっちり罪を償ってほしい。それと島根の一部の地区で閉鎖感で押しつぶされそうになってる若い世代は早く外へ出た方がいい。それだけで人生かなり変わるから
最近、孫が祖父母を殺害する事件が増えてきた気がする。少し前までは 子が親を…だったのに。孫が祖父母を殺めると聞くと、孫を持つ身としてはすごく悲しい。記事から事件を想像するしかないが、母と祖母というどちらも女ということでいえば、うるさくて殺さなければ耐えられなかったのかと。「なんで女はうるさいのだろう」と、今更ながらの所感である。
数日前にこんな光景を見た。広大な駐車場スペースを有する郊外型コンビニと違って、繁華街にある都市型コンビニは出入り口が幹線道路に面している。そこから飛び出してきたジャージ姿の中学生男子が、往来するクルマにクラクションを鳴らされた。「男の子は元気がいいな」と見ていたら、後から出てきた母親であろう女性のこれまた小言がうるさくてうんざりだった。
「なにやってんのよ!いつもいってるでしょう、道路に飛び出したら危ないって。何度言ったらわかるのよ!」
傍観者の自分がうんざりするのもどうかと思うが、上の言葉は自分からみると、一言も二言も多い。だから、うるさい、うざい、と感じるのだ。これが男親だったら、「気をつけろよ」で済んでしまう。要するに、今目の前で起こったことに対し、保護者責任としてもっとも重要なのは、「気をつけろ!」であって、これで十分と思うが、女は余計なことを言いすぎる。
端的に、短く、「危ない!」というのはその状況に対する感情吐露の言葉が出る場合もあるが、注意というからには「気をつけろ」である。上の母親の言葉の言葉数(文字数)は「気をつけろ」の5文字に比べてなんと44文字で、9倍も多い。男の子にとっては父親に比べて9倍もの小言を言われたことになる。心配の度合いが父親より9倍多いということではなかろう。
この状況を見ながら思ったのは、「男の子はこういう母親をだんだんと嫌っていくだろうな」ということだ。おそらく、一緒に歩きながらこの母親は、もっともっと、さらにさらに小言をいい続けるのだろう。あげくは、過去の同じようなことまで蒸し返されたり…。男の子自身は、「危なかった」だけで済んでいるのに、この言われようは、「うるせーな、まったく」となる。
当の本人が、「危なかった」で済んでいるのなら、父親の、「気をつけろ」で十分ということになる。畳みかけてくる母親には、そのしつこさ、言葉の多さからして愛情とは思えなくなる。男の子はこうした上から畳みかけた物言いを嫌う。中学生なのに、母親の視点はまるで幼児そのもの。そういうことが許せないのが男の子である。9月15日の『親子とは何か ⑥』にも書いている。
ある作家の子ども時代のことだが、年端もいかない7歳でありながら、トイレに行く際母親から、「紙をもったの?」といわれて気分を害するように、母親というのはいつまでもおむつを取り替えていた子どもにしか見えないものなのか?その点が母親としてもっとも留意すべきことではないか。自分の心配が相手にどう伝わるかを考えながら言葉を選んで欲しい。
母親は自分の内面に湧き起こる子どもに対する感情を、子の年齢とか状況に鑑みながら、適切な言葉と行動を選んでもらいたい。いえ、選ぶべきである。いつまでも幼児扱いで小言の多い母親から子どもは離れていくだろう。精神的な離乳はあってしかりだが、人間的な理由で母親を忌避するのは問題である。望む母親もいまい、だから自己抑制が必要なのだ。
2014年に北海道南幌町で起きた17歳の高二の少女による、祖母と母を殺した事件が思い出されるが、どちらの事件も父親の存在感が薄いように思う。自分の母は自分の子ども時代と同じように、やはりというか孫に対するつまらぬ言動は多かった。孫を守るというのではなく、子ども時代を思い出させられるが、子ども時代とちがって母に力で対抗できた。
「孫には余計なことを言わんでくれるか、しないでくれるか」、「子どもを媚びさせるようなことは止めて欲しい」などと、強く言うことができた。自分の信ずる新興宗教に巻き込むなどは、「迷惑千万!」であり、拒否を伝えた。孫に何かを買ったはいいが、「恩着せがましく言われる」と子どもがいえば、「無償の愛情を与えらないなら無視したらいいよ。恩など感じる必要はない」と伝えていた。
いつになっても傲慢で短慮で唯我独尊の母に、家庭を荒らされてなるものか。妻は姑に従うのは現実問題として仕方のないことだが、そこは妻も大人だから是々非々な対応はできよう。問題は子どもである。邪鬼どもから子を守るのは父親の役目であり、妻・祖母連合に父は屈してはならない。祖母と母を殺めた少女も先の青年も、父の権威の問題と考えている。