どれほどの数の人間がいようとも、人は確実に死ぬということに異論をはさむものはいない。問題は死んだらどうなる?どこにいくのかということだろうが、当たり前に考えるなら、死ねば棺桶に入れられ、坊さんがお経をあげたのちに火葬場で焼かれて灰になる。残った少しばかりの骨を骨壺に入れてお墓の中に入る。湿気の多い墓の中で骨は溶けて水になる。
溶けて水になった骨を見たことがある。分かりやすいのは押し入れやクローゼットなどに入れるタンクタイプの除湿剤。あれは白色粒状の固形塩化カルシウムで、使用すると空気中の水分によって溶解し、徐々に水溶液が溜まる。カルシウムであるお骨も同じ原理を辿る。ところが、人間の肉体は仮の姿で本来は魂が宿っているということをいう人がいる。
その手の話は信じないし興味もないので詳しくは知らないが、同様に死ねば天国とか地獄とかの霊界といわれるあの世があって、そこへ行くのだという人もいる。誰がいうのか?宗教者、科学者、大学教授、脳神経外科医、作家、芸能人らが死後の世界の存在をいうが、それが真実であるかを証明することはできない。いうのはタダでもあり、責任も問われない。
「奇跡体験!アンビリバボー」2013年11月28日放送では、脳外科の権威とされるアメリカのエベン・アレキサンダー博士が、自らの7日間の臨死体験から、「死後の世界はある」とを発表したと取り上げ放送した。臨死体験が死(デス)なのかニア・デスなのかという問題が解決つかないままに、何をいったところで真正なる死の体験でないなら所詮は戯言である。
死の淵を彷徨っていたのか、確実に死んで蘇生したのかもハッキリと断言はできないから、健常者が睡眠時に夢をみるように、7日間昏睡状態になった人も夢を見るだろう。昏睡状態が死(デス)でないことは明らかである。『臨死体験』の著者である立花隆氏も、「結局、臨死体験とは何かという基本的問題(死=脳機能の廃絶)がなかなか解けない」と書いている。
臨死体験というのは、脳内酸欠状態になれば必ず体験するもので、脳梗塞的状 態で臨死体験した人は少なくない。その際脳内に映る像は心理学的には、「特異な状態で見る夢の一種」とされており、宗教との接点における臨死体験も、宗教的素養や土壌から浄土教の弥陀来迎や、西洋ではパウロの回心にも比較されるが、どちらも人間の想像力の範囲であろう。
臨死体験は死戦期の幻覚であり、内容に共通性が多いのは、ユングのいう"集団 (集合的)無意識"の存在を立証するにすぎないと科学者は考えている。基本的に人は死(デス)を体験できないという前提では、一切が幻想という説を覆すことはできないだろう。釈迦は分からない問いには答えない。頭で考えて答えを出すことはできても、それが真実とはいえないからだ。
原始仏教経典の「無記(ブッタの沈黙)」は、釈迦がペテン師でないことを示す。いかなる形而上的な質問を発しても釈迦は何も答えない。人々が「なぜに答えないのだ!」と釈迦に詰め寄った時、「毒矢の比喩」という有名な対話が残っている。いかなる聖人といえども、知らないことはあろうし、知らないことは答えられないし、答えるべきではなかろう。
孔子は、「知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとせよ」といっているが、釈迦は比喩で諭したようだ。仏陀の仏教は、神や仏という人間の創造物には関与はせず、そんなものに救いを求めるのではなく、自身の道は自身で開けと手厳しい。キリスト教も2000年前のものを受け継いでいることで、現代科学との矛盾は多く露呈している。
キリスト教と現代科学の最大の違いは、前者が霊魂に価値を求め、肉体には価値を置かなかったが、現代科学は霊魂を否定し肉体にしか価値を認めない、逆の価値観に立っている。病気になれば治癒に最善を尽くす現代科学医療をキリスト教は否定するのだろうか?ローマ法王は不治の病に罹患しても、治癒を放棄し、霊魂は不滅なりとするのだろうか?なわけなかろう。
これすら矛盾である。2000年を経ても真理は不滅というのは相当に無理がある。人間の体内のどこかに魂がある。宿っている。それを霊魂というのだろう。詳しくは知らないが…。してその魂とやらは、思考もあり、眼も耳もあり、口で言葉を話せるのだと、魂音痴の自分は考える。でなければ、死後の世界で死んだ誰かに会うことも、見つけ出すこともできまい。
話ができなければ会話もできない。葬儀の時に、「俺も行くから待っててくれ」というのは美しい友愛に満ちた言葉だが、そんなことできるのだろうか?先に逝ったものは待っていてくれるのだろうか?目も耳も口もなくても、意中の相手に巡り合えるのだろうか?魂というのはそれほどに万能なのか?などと考えると、一人で勝手にバカバカしくなってしまう。
魂があって上記のようなことが可能なら、死ぬのもまんざらではないが、魂たちが混雑するあの世(霊界)というのは、開墾・開拓しないと、魂だらけで混雑して大変なのではないか?たまはたまでも、水槽に入れたおたまじゃくしを想像してしまう。おそらく魂に寿命はなかろう。なにせ死んでいるのだから、死んだものに寿命はない。「霊魂は不滅だ!」などという。
何を言っても、霊魂に現世の言葉は戯言だろうとにべもない。刹那を生きる人間が、死後に拠り所を見つけようとする気持ちは分からないでもない。が、死後や幸福にあからさまな宗教には下心しか見えない。宗教も信仰も自分に都合よく存在するものでもないし、ましてや真理というものは、黙ってそこに存在するものであり、存在することで人を惹きつける。
野暮な喧伝や勧誘など所詮は銭集めである。なぜなら、いかなる宗教も信仰も人生のすべてを解明し尽くせない以上、自分の思想や信仰を人生に対するひとつの尺度とするのはどうなのか。一切の先入観を捨てて、何が根本であるのかを考えてみる必要があると、20代の中ごろから思っていた。人生を構成するものは何か…、自分を生かしめている根本はなにか…
自分は「無神論者」だが、宗教に無関心であることを無神論者というのは間違いで、それは単に無知とか思想上の怠慢であろう。本当の無神論者とは、神と永続的な対決経験を有する者をいう。「すぐに信じる」、「すぐには信じない」との回答でなく、神には頼らない、神の御利益など無用という強い意志こそ無神論者かと。神を怖れる気持ちはどこにもない。
神・仏を信じる者であれ信じぬ者であれ、どちらが有利ということもなく死は対等だろう。善人であれ悪人であれ救われねばならぬという宗教的な思考もあるが、「救われる=往生」、「往生=極楽浄土で生まれ変わる」ということのようだが、真偽を問うも確かめるすべはない。宗教者の思想を信じる信じないかであって、いちゃもんつけるものでもない。
信仰について思考もしなければ、宗教を否定するのも自由である。上記したように、「すべての真理は黙ってそこに存在するもの」、「おのずからなる心」ではないだろうか。いかなる人も人生のある時期に思い悩むことはあろう。その時に、ある人に出会ってよかった、宗教によって開眼させられた。そういう喜びがあるのはむしろ良いことに思っている。