いくら考えてみたところで死が何かは分からない。分かるだろうことといえば、見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、香るもの、味わうもの、それら一切とおさらばだなと。死を体験するとはこういうことだろう。我々が見聞きで知る死とは実体ばかりで。体験といいながらも体験とは言わない死の本質について、それを知りたくあれやこれやと考えるのだが…
いつの日か分からぬが自分は間違いなく死ぬ。どうするこうするといっても、死を命じられるその日までじっと待つしかない。などと死や命のことを考えると、生命とは死と生の統一物と実感する。対立というより統一。ぐーたらしていても腹はへる、だから我々は生きるために動き働くのだ。じっとして腹がへるということは、そのままじっとし続けていると死ぬということ。
死の本質というより、命の本質的こそが死であった。命は自分の身体の外にある他物をとり入れなければ生きていられない。他物とは、栄養、水分、酸素、さらには各種ビタミンやミネラルなどでそれらは食物の中にある。命を実在させているのは命そのもの以外の他物だと分かる。命の実体も本質も、つまり我々の生命活動というのは死の活動といえなくもない。
視点を変えると世界がまるで変わって見える。命の本質が死ではなく生と思いこんでいたなら生命の真実は理解できない。と、同時に真実の人生を理解することも、生きがいというものを自由に作り出していることすら分からなかった。が、命を生かしてくれるのが他物であれ、その他物をとり入れるために我々は動き働く。これこそが我々が働く本当の理由であった。
「人間はなぜ働くのか?」の問いに対し、「生きるため」と答えるのは正しいが、漠然とした「生きる」正体とは、こういうことだった。おバカなニートが、「働くのは損」、「働いたら負け」などと能書きをたれているが、なぜ働かずして奴らは生きていられるのか?働かなくとも餌にありつけるからで、果たしてこれが親の愛情か?少なくとも自分にそれはない。
彼らは人間に生まれてよかったと笑ってやろう。野生動物に生まれていたなら、いい歳とって親から餌は与えてもらえない。生きるためには自分で獲物を確保せねばならない。「生きる」とはそういうことだと動物は教えるのに、なぜに人の親は野生動物より下等でバカなのだろう?働きもせずに部屋にこもる我が子に三度の餌を運ぶ親は、不幸などと思ってはいない。
「働かざる者食うべからず」。昔の人は正しいことを言っている。働かざる者、食ってはならない食わせてはならないといっている。上記の生命の論理からすれば、働かない者は死ぬことになる。死ぬはずなのになぜ生きているのか?これこそが、現代的な甘えの構図としての共依存である。こんなんでいいのか?もし親が餌を与えなければ奴らは、「のたれ死ぬ」のか?
それとも動物のように自ら餌の確保に動くのか?自分が親なら死んでもいいからと叩き出す。人間が動物以下ではあんまりだ。「こどもの大部分は親の責任」といつも言ってるが、働かない息子にした親の末路、責任の取り方と大目にみるしかない。2017年の時点で71万人といわれるニートたち、彼らの行く末は誰も知らない。親が死ねば浮浪者にでもなるのだろう。
ルンペン、乞食、浮浪者にはそれなりの理由があるかも知れぬ。「三日やったら止められないのが乞食」というが、本当なのか?自尊心をかなぐり捨て、ひたすら物乞いする乞食がそんなにいい商売とは思わない。上の慣用句は人間の本質はナマケモノという比喩であろう。物乞いしても生きて行く者もいれば、地位や名誉や財産があっても人は死ぬから不思議である。
浮浪者になる理由は分かれども、自殺者の気持ちは分からない。辛いだろうことは分かるが、死ぬほどのことなのか?そこが分からない。拷問は別にして、どれだけ辛い目にあえば自分は死ぬのだろうか?「STAP細胞はあります」という言葉も懐かしいが、理研の笹井芳樹氏の自殺の衝撃である。あれほど優秀な頭脳所有者で将来を嘱望された人が死ぬという何故?
あれだけの頭脳を完成させた人の死は勿体ないどころの話ではない。彼は一切を捨てても死が上回ったことになる。なんという希薄な生命力であろうか。自死は人間の最大の謎。自殺理由を答えられるのは本人のみといいたいが、本人ですら表現し得ないのでは?身近な妻子はいかなる心境か?人は一人でも死ねるが、生きていくためには多くの人の支えが必要となる。
自殺は罪悪な部分と尊厳の部分がある。笹井氏を例にいえば、やはり妻子に対する負い目はあろう。昨日と今日とがまるで違う状況という体験は、したものでなければ分からない。思うに自殺も幾多の凶悪犯罪も、それ以外のその他一切のことは、人生という不可思議な謎から起こるのだと。自分も同じ線上に生きていると思えば、他人を笑うことなどできない。
人は人を気楽に笑い安易に蔑む。他人事だからといい気なもの。互いがどうすればいいのか、どうしていいか分からぬ人生に生き、その分からぬという迷いに互いが暖かな心を投げ合うことになるなら、世の中はこれほど荒むことはなかろう。自殺者の自己判断は滑稽に見えるが、死ぬほど思いつめるならその精神力を転換させて不可解に挑戦できる。
それもままならず最後の自由を求めて人は死ぬ。死に急ぐ人は生きることだけ求めていない。生きがいが必要だったのだろう。「生きがい」という響きはいいが、生きがいを失った、生きがいを得れなかった、それで自殺なら「生きがい」は死に直結する大きな要素。「生きがい」の「がい」とは、「甲斐」という願望であり、あくまで「生きる」がメイン。
自殺には報復や意趣返しとしての理由もある。自分が死ねば親は嘆くであろう、ざまー見やがれと思ったことがあった。報復自殺で驚いたのが、映画『世界残酷物語』の焼身自殺である。1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教徒への圧政に抗議した、ドック僧侶はサイゴンのアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。
僧侶は支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎をものともせず絶命するまで蓮華坐を崩さなかった。人の死の惨さを訴えるのだろう。だから焼身自殺である。高僧ともなれば、生の喜びに浸るより死者の嘆きを訴える。命の使い方がまるで違うことに驚く。苦しみを喜びに転換できない者たちの代弁という死は、凡人の理解をはるかに超えている。
このブログは死と生がテーマであるが、凡人の当たり前の死生観としては、命を完全に生き抜くのも喜びとする。生を完全に生き抜いたものが、完全なる死を迎えることになるのではないか。別の言い方で、充実した生の果てに充実した死が待っている。天に召されるまで精いっぱい生きたなら十分に感謝である。誰に感謝?命に感謝を捧げるべきかと。