言葉から連想するのは、「秋深し(き)」に連なる芭蕉の句。正しいのは、「秋深し」なのか、「秋深き」なのか?この句を詠んだ頃の芭蕉は最晩年にあった。彼が世を去ったのが元禄7年(1964)10月12日。上の句を詠んだのは同年9月28日だから死の2週間ほど前である。病床にあるこのとき、芭蕉を励ますことを目的で句会が予定されたが、芭蕉は出席できなかった。
それもあってか、芭蕉は上の俳句を弟子に託した。芭蕉の出席が敵わぬことで句会そのものは流れたが、この時芭蕉はこう詠んでいる。「秋深き 隣は何を する人ぞ」。「秋深し」ではなく、「秋深き」である。芭蕉のこの時の胸中は、「秋が深まっていき、床に臥せって静かにしていると自然と隣の人の生活音が聞こえてくる。人は今は何をしているのだろうか?」
秋という時節の物悲しさは、落ち葉や枯れ葉といったネガティブなイメージからも想起される。『思秋期』という曲がある。思秋期とは、思春期に対峙する概念として提唱されている心理学の用語。身体や精神に衰えが見え始める時節には、人によっては心理的な危機に直面するおそれがあり、警鐘を鳴らすという意味で、「思秋期」という概念が心理学界から提唱されている。
「人によって…」というように個人差もあり、具体的にいつ頃という特定はないが、「何となく歳をとったなぁ」と感じるようになる年頃なのかも知れない。中年の問題を取り上げた文学作品は結構あって、読んだもの以外にも知らないものを含めれば膨大な数ではあいだろうか。中年は壮年ともいい、意気軒高で問題ない時期といえるし、中年クライシスともいえる。
「希望に満ちた若者」といいながら、反面には暗澹とした青春期ともいえるように、中年には良い部分も悪い部分もある。いずれの時期も相反する見方ができるが、中年の危機が強調されるようになったのは社会学的にいえば、テレビドラマで「金曜日の妻たちへ」が話題になった1980年代は上半辺りであろう。いわゆる、「金妻」、いわゆる、「不倫ドラマ」である。
花から花へと飛び交う蝶としての男は昔からそのような基本習性をもつ生き物と認知されてはいたが、大地にしっかりと根を張り、微動だにしなかった(ようなイメージに彩られていた)専業主婦たちが自らの足で動き始めた時代であり、それが今はもう、あれよあれよという間に花に足がついて動き回る時代になった。「金曜日の夜10時以降は、主婦が電話に出ない」とまで言われた。
女が大地に根を張って大人しくしていたのは、本能でも習性でもなく自己抑制に過ぎず、何かを契機に箍が外れたとたんに、堰を切ったダムの如くなだれ込む。「抑制」というのはそういうものだ。例えとして分かりやすいのがダイエットのリバウンドである。不倫ドラマの走りとしてエポックメイキング的な作品だったが、多くの妻たちの血を騒がせた功績(?)は大きい。
「金妻」ブームのさきがけになっかかどうかはさておき、その5年前に『岸辺のアルバム』という衝撃的なドラマがあった。主演の八千草薫と竹脇無我といえば、当時の業界人としては良識を代表する御仁であるが、この二人が不倫をするということで、竹脇ファンよりも、八千草ファンがどれほど衝撃を受けたことだろう。八千草は今では90前のばあさんだが当時は46歳。
俗にいう「し頃」の年代である。「30させ頃」、「40し頃」という男のスラング。女性の年齢を念頭に女性を眺めるのは失礼とはいいながらもやってしまいたいもので、彼女は還暦を迎える年齢にあっても、筆舌に尽くしがたい若さ美しさに加え、女性として天性ともいえる清楚な趣きがあった。清楚で無邪気な少女のイメージをもった特筆すべき女優さんであろう。
『岸辺のアルバム』はそんな八千草を主演にすること、人が所有するイメージを崩壊すること、どんな人間でも堕落するものだということ、そうした複合的な要素が、この作品をテレビドラマ史に残る名作にしたし、テレビドラマ嫌いの自分もくぎ付けになった。その彼女が若き男と不倫をするとなりゃ、不細工・不清楚おなごも黙っちゃいない。八千草は宝塚出身である。
大阪生まれで幼少時に父を亡くし、母一人子一人の家庭に育つ。聖泉高等女学校在学中に宝塚劇団に合格、宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなし、当時のお嫁さんにしたい有名人の統計で、たびたび首位に輝いている。作家の栗山良八郎は、『わが青春のアイドル 女優ベスト150』の中で八千草を、清純の微笑み、永遠であり、魂の人という表現をしている。
自分は八千草薫ファンというわけではないというより、ファンという女優がいないが、八千草は父が好きだったようで、その影響もある。子どもは自分が好きな親の好きなものを好きになるところがある。嫌いな連ドラ『岸辺のアルバム』を観るきっかけもそういうことだったし、父の他界する5年前に放送された。金曜日の10時ということで、同じTBSの「金妻」ブームの魁である。
映画やドラマの面白さというのは種々あろうが、特筆すべきは他人の生活が手に取るように眺められることにある。考えようによれば、自分の日々の生活を家の中、仕事場、外出先にいたる一切を定点カメラや移動カメラで撮影しているようなもの。こんなことはあり得ないが、作り物映画やドラマではそれができ、そのあからさまを視聴者に披露することになる。
俳優さんたちは一様にカメラなどないように演じ、振舞うこところがさすがに役者さんであろう。彼らはフィクションを演じているのだが、フィクションであるというのは、映画・ドラマという作り物というだけで、リアルな言動からは現実感を錯覚させられる。先日、『東京ラブストーリー』が27年ぶりに再放送された。最終回だけ観たが、気恥ずかしいばかりでまともに観れなかった。
それだけ老いたということなのだろう。織田裕二の臭い演技も、保奈美の奇天烈奇抜な演技も鼻につくばかりで、途中で観るのをやめようと思ったが、せっかく与えられた時間だからとこなすことにした。観ながら、「こんなことはあり得ない」ばかりが頭を過っていたたまれなくなる。愛媛出身の女子大生に奨められてレンタルビデオでまとめて観たのが最初で25年前。
「感情移入」というのが年齢とともにだんだん遠ざかっていく。『月光仮面』を40年後に観たときも、途中で観れなくなった。やはり、子ども用のものは大人には向かないようになっている。それが普通の正常人ということか。現実とフィクションの区別がごっちゃにならないのが大人としての成熟である。「子ども心」は大事だが、いつまでも子どものままは批判の対象だ。
先の記事にも書いたが、人間が成熟してくると、「他人と自分」という境界が分別されるようになる。他人のすることにいちいち腹を立てたり、苦言を吐いたり、いちゃもんつけたり、最近の芸能人はそういうのが多くなったが、これも彼らの自己顕示欲の一環なのだろう。人に無関心であれというではなく、利口な大人は、「他人に無関心を装う」技を習得すべきである。