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「格差」の本質

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人はどのように生きたとしても、「よき人生だった」とするのが死へのはなむけ言葉となる。ジョブズはこう残した。「私が勝ち取った多額の富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけないが、愛は持っていける。 私が今、死と共に持っていけるのは、愛に溢れた思い出だけなのだ」。この言葉から受けるものはそれぞれだが、良い言葉、名言というより、切実なる言葉である。

ジョブズの言葉は彼の遺言として残した文言のなかの一行で、冒頭は以下の言葉で始まっている。「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。」

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「お金や富は事実でしかない」。我々には重要な事実だが、死にゆく者にとって通帳の数字は記号である。誰がいったか、「お金はあの世に持っていけない」は昔からあったた言葉であるが、人間にとっての健康というものは富やお金の比ではないと、ジョブズの言葉に心新たにさせられる。ジョブズはもっと生きたかったろうし、仕事も富もすべては健康が前提にあってのもの。

彼は自身に無理をせず、虚勢を張らず、思うがままの言葉で辞世を綴っている。最後の言葉は、「あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。あなたの家族のために愛情を大切にしてください。あなたのパートーナーのために、あなたの友人のために。そして自分を丁寧に扱ってあげてください。他の人を大切にしてください。」

逝くものに憐みを抱くのは健者の驕りかも知れない。が、彼のような偉大な人物ですら自らの意志に反して人生を終えねばならない。貧困層が格差社会を呪いあげつらうけれども、裕福層においても不平等や不公平は彼らの前に敢然として立ちはだかる。「格差って言葉はいつごろから、誰が言い出したのか」。「格差」とは単なる「差」ではなく、「格の差」ということだ。

『大辞林』:「同類のものの間における、価格・資格・等級・水準などの差。

『広辞苑』:商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差。

なるほど。格差というのは、「同類のものの間に生じる差」、「標準品に対する差」であるらしい。人間そのものに上下はないとすれば、エジソンもジョブズも我々も同類である。一級品の彼らと自分が同等の標準品とは思えないが、前者においては格差、後者は比較すべく差ではないからして格差というよりはむしろ、「格の違い」を抵抗なしに受け入れられる。

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世間が、「格差だ、格差」とギャーギャー喚くのは、人間の能力や学力や所得に差があるのは当たり前のこととしても、最近の格差議論は我々がまだ一億総中流の幻想に囚われているということなのかも知れない。もしくは、同じ日本人同士として、許容し得る差と許容し得ない差というものが絡み合いながら、そうした許容範囲を巡って議論をしているのかも知れない。

ブルデューというフランスの社会学者は、「ハビトゥス」なる概念を提唱している。「ハビトゥス」とは、文化資本と訳されるが、文化の型のこと。後天的に習得されるものであるが、本人の努力によって矯正は可能だが、変えるのは至難で、本人の思考や行動様式に大きな影響を及ぼす。ブルデューは、階級間には単純に経済力格差だけでなく文化資本が存在するとした。

しかも、それは乗り越えられないとした。文化資本を簡単にいうと、家に沢山の良書がある家庭と、マンガしかない家庭とでは文化資本の質が違うことになる。子どもが良書を読む確率は前者が高い。親子間ではそういった文化的なものにとどまらず、生き方のモデルまで受け継ぐ可能性が高い。暴力を振るう男とばかり付き合う女性は、その原型を幼児期に持っているものだ。

カエルの子は、必ずカエルとして生まれたわけではないが、カエルの家庭に生まれ、そこで育てられることでカエルになっていく。これらは貧困の連鎖の一因として理解できよう。勉強というのは、子どもが学校の文化、学問という文化に適応することで、これこそがハビトゥスである。高学歴の親の子が高学歴になり易いのは、親がその文化に適応しているからだ。

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したがって、金を出して子どもを塾にぶち込んでおくのと、文化度の高い家庭内で育つ子どもとでは、本質的な文化度が違ってくる。教科書や参考書だけでは伝わらない何か、得ることのできない何かを文化度の高い周辺から無意識に学ぶことになる。心の貧困な親がどんなに激を飛ばしても、おそらくは子どもの教養的文化度が磨かれ、高まることはなかろう。

「カエルはカエルとして生まれるのではない。カエルになっていくのだ」。とボーボワールは言ってはいないが…。「お母さんは一生懸命に勉強したのよ。成績もよかった」と嘘を言おうが、「お母さんはあまり勉強しなかったから苦労した。あなたはそんな苦労しなくてもいいように、勉強をがんばって!」と、ホンネをいおうとも、どちらも子どもの成果には乏しい。

勉強という文化を身に付けていない親は、子どもにとっては、"勉強に対するアンチモデル"となることに気づいていない。「カエルの子はカエル」というのは、かなりの高い確率で事実である。昨今においては、多くの家庭では子どもの進路に母親の影響力が高いという。父親は形の上では威張っていても、子どもへの実質的な影響力はない。こうした現実が多くの悲劇を生んでいる。

父親は娘に対し、普通の青春を送って欲しいと願っている。男親は子どもの自由を望むもので、ふつうに彼氏をつくり、ふつうにバイトでもし、ふつうに勉強もし、ふつうの成績で卒業してくれたらそれが娘のためだと思っているが、それでは収まらないのが、自己イメージの高い母親である。こんな家庭はそんじょそこらにあるだろう。口にチャックを決め込む父親の多き事。

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子の多くは圧倒的な親の支配下にあり、親の価値観を受け継ぐが、「子どもの人生は子どものもの」という観点からみれば、親の支配はおかしい。4人の兄弟全員が東大に入ったところで、それが親の作為であり罠であるなら、道理として自分はおかしいと感じるが、所詮は人の子を親がどうしようが文句をいう筋合いはない。いかに他人の屁が臭くても鼻をつまめばいい。

「臭いものには蓋」。隣の芝生が蒼かろうが伸びていようが、無関心を装うのが「良い大人」。「マネーロンダリング」という経済用語があるが、学歴社会というのも、「ロンダリング・システム」と変わりない。親の高学歴、職業的高収入、文化資本を受け継いだ子が、受験という選抜システムの中で浄化(ロンダリング)し、実力あるふりをするのが学歴社会である。

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