あることを「知らない」といった時に、「そんなことも知らないのか?」といわれたことがある。頻繁にある。「そんな言われ方されると腹が立つ」とか、「切れる」とか、「バカにされた気がする」などという奴もいる。「そんな言い方しないでもいいだろ?」と言い返す者もいる。自分はどれでもない。そんな言い方をする人間に好人物などいたためしがないからだ。
そういう言い方をする奴ってのは、「自分が知っていることは相手も知っているはずだ」という概念の所有者なのだろう。ならばそっくり反対にすれば、「相手が知ってることを自分が知っていなければならない」。物事は時に逆に考えることも必要だが、そんな風に考えない無知者である。自身の無知を棚にあげて相手の無知を指摘するのが快感なのか、いい気分に満ちている。
「えー、そんなことも知らんの?」と、悪気のない人間もいるし、自分も不注意にそんな言葉が出たこともある。不注意といったのは、そういう言い方はすべきでないと思っているが、「自分が知り相手が知らぬなどは当たり前」という道理を忘れてしまうからだ。こういう言い方は相手を傷つけたり気分を害すもので、そんな意図はなくても侮辱言葉に受け取られることもある。
「言葉は注意して選ばねばいけない」。つくづく思うことだが、万有引力を発見したのはニュートンなどの常識とされることを知らぬ相手には、つい口先まで出かかる。「人に愛」といわれるように、「人に配慮」も愛の範疇である。普通に知るハズのことを知らない人に驚くことはあっても、「普通」という言い方が実はくせ者で、知らない者が普通でないとはいえない。
「そんなことも知らないの?」と、何気に言っても、何気にいわれたと受け取らない場合は気分を害す。確かに受け取り方によってはヒドイ発言だ。人間関係の機微において、こういう発想(発言)をするのは危険な性格といわねばならない。相手を見下すとか、相手との差異に快感を覚えるなどの意図はまったくなくとも、慎むべき言葉と自らに言い聞かせたりした。
率直で他意なき自分に必要なのは言葉の配慮だった。「そんなつもりじゃない」という気持ちは自分には分かっていても相手には分からない。だからダメなのだということが分かるまで長い年月を要した。何かを言った後で相手が沈んだり、機嫌を損ねたり、怒ったりの後に、「そんなつもりでいったんじゃない」というのは、事実であっても言い訳に聞こえてしまう。
それがダメである理由は、自分の心は相手には見えないからだ。「良い人」になりたいとは思わなかったが、他人に悪態をつくような人間にはなりたくない。そうのは「悪い人」、「嫌な奴」である。素直で率直な人間だからといっても、不用心・無頓着なら褒められたことではない。自分が長所とする自負も、事と場合によっては短所になるものだと気づかされた。
人は自分の考えるように相手を考えるが、独善にならぬよう相手の考えを見越して自分が考えるべきで、それを洞察力といい、相手の性格を見極める能力である。確かに人の性格や心中を把握するのは難しく、だから人は無難な言葉を用心として選ぶが、率直人間はそうした言い回しが不得手である。しかし、子どもと同等の素直で率直は成長の証とはならない。
人間は成長しなければならないが、成長するというのは大変なことでもある。先にいった、「良い人」になろうではなく、もし自分という人間と自分が付き合うなら、嫌な自分でいたくはなかろう。ならば、自身の至らぬ点や嫌な点を改める必要に迫られる。あとは、できるかできないかの問題が残る。自分と付き合う自分のためにも自分の嫌なところは直しておきたい。
自己変革は難しい。が、難しいと思えばこそ取り組めるもので、取り組み甲斐もある。「三日坊主」は子どもの頃の自分の代名詞だった。といえば今の自分を知る者は「嘘だろ?」という。「三日坊主」と頻繁に母から罵られた。一年中罵られていた。言われ続けて責める以上に自分でも嫌だと思うようになった。どうすれば、「三日坊主」でなくなるか、真剣に考えた。
考えただけで直るものではないが、頭に重石のように乗っかかる、「三日坊主」を取り払わないことには気になってどうしようもなかった。が、今に思えばそれが良かった。何かを変えようと実行するためには、意識を持続させることであると知った。きっかけは中国の故事にいう「臥薪嘗胆」である。「自己変革は生きた時間だけ要す」という文言を目にしたが、何年かかろうとやるしかない思いに至る。
「三日坊主」に限らず、完璧とまではいかないが、それなり時間を要せば何某かの効果はでようもの。15で初めて40、50までかかれば生きた年齢の倍以上である。未だ不足は多いが遂げられるとは思わないし、遂げられなくてもいいと思っている。そんな完璧な人間でいれるわけはないし、そこそこでも十分である。「辿り着いても未だ山麓」という言葉が示すのは、人間は聖人になど成れない。
「良い人」という表題で書き綴って入る。正直いって、「良い人」は漠然とした言葉である。「親切」も、「思いやり」も、「正直」も、「良い人」の範疇であり、他にも欲・妬・無責任・放蕩・浪費…あげればキリがない。ほどほどにあってほどほどに付き合えばよい。だから、「良い人」は目指せない。先に述べた自分が自分と付き合う際、嫌な自分でなくすことが目的だ。
それが自己変革を行う際に無理なく、気負うことなく、自分を剥がしていくためのアイデアだった。誰だって、「悪い人」にはなりたくなかろうし、「悪い人」でいたくはなかろう。だからといって、本気で自己を修正しようにも、「三日坊主」で終わりかねない。「三日坊主」を修正するのに、「三日坊主」ではマンガである。自己変革に何より必要なのは意識を絶やさぬこと。
「三日坊主」な人とそうでない人の違いは意識の差だと思っている。性格的に、「三日坊主」と「三日坊主でない」人がいるのではない。「三日坊主は嫌」という意識がその人を「三日坊主」の呪いにかける。「天才は日々の努力」と同じで、天才とて努力を終えればそこいらのただの人。努力を頓挫し、放蕩に足を踏み入れた元天才と称する人の多きかな。
人間が立て看板として掲げる何かは意識と努力であろう。多大なる意識が必要か、軽い意識で済むかは要した努力の差で決まる。ある程度の境地に到達すると、意識も努力も日常化する。掃除が嫌いで部屋がいつも汚い、そういう人も努力をするうちに意識として内面化され、楽にお掃除が日常となる。何かを変えようとするなら、頭に意識という重石を置けばよい。