「良い友(親友)とは、自分に最大の孤独を与えてくれる」といったが、孤独というものは必ずしも独りぽっちでいるという意味ではない。孤独を怖れる人間は沢山の友人を持っていても、一人でいるときは孤独感に襲われる。が、孤独を怖れぬ者にそれはない。自分がいいたいのは、どんなに親しい友であれ、一人の人間の生き方というものを明確に示すことなどできない。
人間というものは本来孤独である。どんな人間でも例外なく、それぞれの程度に応じて孤独であり、多くの人と交わりながらも人間は孤独なのだ。人を愛するときも、死ぬときも人は孤独である。恋愛は、二人の人間が愛し合うゆえに孤独でないはずなのに、何がしかの不安や孤独がつきまとうのはなぜなのか。おそらく、恋愛というものが危険な冒険のようであるからだろう。
自分の恋の悩みを誰かに話して意見をもとめてみても、あらゆる助言は何の指針にならない。自分が身をもって当たる以外にないのである。苦悩し、よろめきながらも人はただ独りで耐えねばならない。そういうことからも、人生というものは皆独りで戦っている。パスカルもこんな風にいう。「人間は死ぬときは独りなのだから、常にただ独りであるように行動しようではないか」と。
子どもを巻き添えに心中する母がいる。そんな父は聞いたことがないが、独りで死ねない母親には腹が立つ。「愛」は生の極限であるからして、子どもを道ずれにするような母親は子どもを愛しているとは言えない。己が所有物という傲慢に満ちている。いかなる親といえども、我が子を殺せば罪の意識に苛まれるが、自分が死ぬことで罪の意識から逃れることができる。
だから、子どもを道ずれに心中する母は卑怯者である。なぜ、一人で死なないのか。子どもを殺しても自分も死ぬのだからいいのだと、これはもう、「罪をもてあそぶ罪」ということでしかない。自殺の根底にあるものは、おそらく絶望であろう。生きること、生ききることが耐えがたい罪悪と感ぜらるるなら、そこから脱出する道は自殺ということになるのだろう。
絶望の果てに自殺というが絶望とは何か?絶望の経験のない人間はおそらくいないし、絶望経験のない人間は人間とは言えぬ。絶望という自己否定によって新たなる第二の自己を形成すべく、強さ、逞しさがあってこその人間である。崩壊しながらも蘇生し、蘇生しながらまた崩壊する。長き人生における絶え間ない崩壊と蘇生の連続のなか、やはり最後は蘇生である。
自殺は罪なのか美徳なのか、意見は分かれるだろう。自己の生存の意義が感じられなくなったとき、自殺は人間のみに与えられた美徳であろう。三島由紀夫がそうであったようにだ。ただ、三島は45歳の思慮分別ある大人であり、10代の少年少女の自殺に思慮分別は希薄だ。ゆえに少年たちの自殺を美徳といわぬが、死に急ぐ彼らの思慮分別のなさは遺憾ともし難い。
思慮分別のある者の自殺であれ思慮分別なき者の自殺であれ、彼らが自殺せねばならぬと決定した自己判断が、果たして正しかったのか、正当であるといえるのか、自分には分からない。つまり、人間には自己を確定判断するだけの能力が与えられているのかどうか、それも分からない。人のことも自分のことも分からないだらけなら、多くのことは問いかけである。
三島の死は一面美徳だろうが、絶望の果てに新たな第二の自己形成の希望をもたなかった点においては、彼は罪深き人間ともいえよう。たとえ希望を抱いたところで、またしても絶望を呼び起こすのではないか?こういう不安は当然にあるが、自殺という行為は、こういう不安からの完全逃避かも知れない。一切を自己の計量で仕切り、自己陶酔という自殺は罪深きかな。
「良い」とか「悪い」とか、何事においても簡単にいうことができるが、とかく人間は多面的で複雑多岐であるから、「良い人」は、「好い人」のことであったりの方が分かりやすい。ただし、「奢ってくれるから良い人」というような、タカリ体質人間の、「良し悪し」などはいかにも陳腐である。女性に多いが男にもいる。基本的に付き合う種の人間でないと決めている。
友情は美しいものだという。太宰の『走れメロス』、実篤の『友情』、志賀直哉の『和解』しかり。漱石の『こころ』を友情小説とするか否かは分かれるが、話の基本構造は武者小路の『友情』と変わらない。『こころ』の主人公Kは、先生が自分を裏切ってお嬢さんと結婚したことに絶望して自殺をするが、『友情』は杉子を巡る野島と大宮に勝利したのは大宮だった。
杉子と結婚する運命だった俺は、彼女と結ばれる運命を受け入れる人間として成長する。我が友野島、お前は杉子からボロ雑巾如く捨てられる運命だった。だから野島、お前も杉子から捨てられるという運命を受け入れて成長しろ。そうして国家を、人類を、成長させるための偉大な仕事を共に成し遂げよう。俺は俺として、お前はお前として運命を受け入れることで…」
という大宮の言葉に野島は手紙にこう書き添える。「死んでも君達には同情してもらいたくない。僕は一人で耐える。そしてその淋しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。君よ、僕のことは心配しないでくれ、傷ついても僕は僕だ」。これが男の世界、男同士にしか分からない世界観ではないか。おそらく女はこんな調子の言葉を並べると想像する。
ごめんなさい。あなたが〇〇さんを好きだってことは分かってたし、まさかわたしも〇〇さんを好きになるとは思わなかった。でも、わたしにはどうしても〇〇さんが必要なの。あなたには悪いと思うけど、〇〇さんもわたしの気持ちに応えてくれたことで、決心できました。ともだちを選ぶか彼氏を選ぶか、わたしはあなたに憎まれても彼氏を選びました。こんな女でごめんなさい。
自分で書いておきながら笑ってしまう。男同士に、「ごめんなさい」などの言葉は無用である。なぜなら野島は、「死んでも君達には同情してもらいたくない。僕は一人で耐える」と書いている。書かなくとも男なら分かる。だから、「許して」、「ごめん」など、気持ちを逆なでするような言葉をあえていわない。実際野島の心中は発狂寸前であり、それは大宮にも分かっている。
野島は大宮の手紙とは裏腹に、自身の日記には泣きながらこう綴っている。「自分は淋しさをやっと耐えてきた。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え」。神を持ち出すことは自分にないが、藁をも掴みたい野島の心中である。いずれにしても男には、「やせ我慢」が不可欠。高所に登ったり、高所から飛び降りたり、墓場で肝試しをしたり、されたり…
こうした数々のやせ我慢を通して肝を育んでいく。元服を終えた若武者が、戦の初陣で脱糞、失禁するようなものだから、場数を踏んで一人前になるしか方法がない。「怖い怖い」で避けるではなく、「こんなものの何が怖いものか!」、そういうやせ我慢が男を造る。小説の野島は、ナイーブでなよなよしたキモチワルイい男だったが、こうした経験が彼を男に仕立てていく。