「あの人は良い人だ」とある人はいい、同じ人を別のある人は、「どこが良い人?」と首をかしげる。そんなことは結構あるが、考えてみれば当たり前のことかも知れない。ある映画を「良い作品」といい、別の人は「駄作だな」というのと同じこと。「良い」も「悪い」も人それぞれだ。友人にもいろいろあって、その中で自分がもっとも親しい友人を「親友」という。
親友というからには「良い」と思ってる友人だろうが、「悪友」というのは、本来は交際するとためにならない友人、悪いことを共にする仲間のことをいうが、むしろ特別に親しく仲のよい友人や遊び仲間を親しみを込めてで呼ぶ言い方である。なぜこういう言い方をするのかを考えたことはないが、「悪いことでも一緒にやれる友」というほどに通じ合ってるということか。
単に遜った言い方というより、「悪友」の言葉の意味するところは説明は無用と思われる。作詞家の阿久悠は、悪友にかけたペンネームだが、その由来は分からない。自らつけたと思われるが、由来については語っていないからなのか謎である。別にそうしたかったからしたのなら、由来とか動機とかを説明することもなかろう。一時代を築いた才能ある作詞家といえる。
なぜhanshirouなのか?何でもいいと思っていたし、特別に考えたわけでもないし、吟味したわけでもない。ハンドルなんて何だっていいと大雑把な思いで、たまたま頭の中のどこかにあった一つを選んだにすぎない。犬にポチ、猫にタマと瞬時につけるようなものだった。あるフォークシンガーは、デビューの際に気負ってか、入江剣(いりえけん)」の予定だったという。
彼の名は吉田拓郎。「拓郎って名が好きじゃなかった。田舎っぺの百姓のような名前だし、入江剣はカッコイイし、本人もかなり気にいってたという。もし拓郎が入江剣にしていたなら、世に吉田拓郎は存在しなかったことになる。あの拓郎が、「入江剣」であるそのことがおかしい。原武裕美、佐藤靖、木本龍雄て誰だ?郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹のお三方である。
中谷啓子(内田啓子)、加藤和枝、北村春美は、順番に樹木希林、美空ひばり、都はるみである。反対に芸名と思いきや本名なのが、スガシカオ、下條アトム、剛力彩芽、河相我聞。スガシカオは菅止戈男と表記する。ZARDの坂井泉水の本名は蒲池幸子。「ZARD」というプロジェクト、「blizzard」、「hazard」、「wizard」といった単語から取ったと言われている。
話がそれたが、本日は「親友」と会ってきた。大腸がんの手術で大学病院に入院していた2011年に知り合ったYさんである。もう八年になるが、会ったのは今日もいれて五回。一度目は退院半年くらい後に自宅に来訪。その後の二回はウォーキング途中に勤務先に寄って数分の会話。四度目は、彼がカリウム不足で倒れて入院し、見舞った。そして今日は朝9時~1時までの最長である。
Yさんがドローンを始めたというので、機器をもって海岸沿いで披露してもらった。なかなか面白そうだったが、昔流行ったラジコン飛行機の電子制御版で、文明の進歩を見せつけられるドローンである。飛ばして操縦して撮影してYouTubeにアップするなどをするのが楽しいらしいが、Yさんはそれはしないという。古来の糸を垂らす魚釣りからドローンに至る趣味は多種である。
それぞれの人に向いた趣味があるということか。Yさんとは寿司店で昼を一緒にして別れたが、「ここの巻きずしは美味しいから、奥さんのお土産にどうです?」というと二つ返事で了承したが、後でこう返す。「こんなことしたことないので、何かいうかも知れない」、「何ていいそう?」、「どうしたのそんなことして?どういう風の吹き回し?というかも知れない。
自分にすれば当たり前のことでも、「したことない。何か言われそうだ」という夫婦もいるという驚きである。Yさんは自分にとって親友である。7年間で4度しか会ってないし、電話も3か月一度くらいYさんからいただく程度で、彼は定年を過ぎても財務に長けているから、嘱託でもパートでもなく、正社員のまま給与・賞与といった報酬も減額ないままに受け取る身分である。
趣味は三度の食事よりパチンコに入れ込んでいたが、負けてばかりでいい加減嫌になってきたからと、ドローンに趣味替えしたようだ。「いつ死んでもいいように、やりたいことはやっておこう」。「そりゃそうだ、パチンコも趣味だったかも知れんが、趣味で財産を減らすのもどうかと思うよ」。「誰もそんなつもりでやってないし、勝てないと分かっても止められないからね~」。
「勝てないと分かってても…というのは、宝くじが当たらないと分かってても買うのと同じで、内心はそうじゃない。勝てない、当たらないと分かってても…というのは、ハズレタときの口実だろうね」。「人間は口実があるからバカなことをやれる」。「そうそう、自分はバカだバカだといいながら、バカなことをやる自分を許してる。言葉を話すから人間は面白い」。
「人を批判しても実入りはないからね。人をみて自分に言い聞かせるしかない」。大人の会話にもいろいろあるが、友人とは何かを言ってくれる、何でも言い合えるというところが基本だろうか。親友というのは自分のもっとも親しい友達だから、どういう友情で成り立っているかといえば、一番親しい友達というのは、一番深い孤独を与えてくれる友達ではないかと思っている。
そんなことはないという批判もあろうが、友情が芽生えた経緯を考えてみるといい。昨日までまったく知らない同士であった人間といきなり親しくなる。あるいは徐々に親しくなる。こういう場合には何が機縁となって親しくなるかといえば、いうまでもなく互いが似た境遇や問題を持っていることだ。入院患者同士という共通点はあっても、それ以外のことは話さなければ分からない。
そこでいろいろなことを語り合い、その門口で心が触れ合った時、この人とは情でつながれると感じる。それが友情の初めの一歩となる。込み入った様々な世界をもっているからこそ友達となれるといった方がいい。例えば共通の趣味を通じての仲間というのは、仲間であっても友達とは違う。ここは不思議なところで、自分の将棋仲間は、それ以外の交流はない。
これも人間の機微といえるものだろうが、共産党員でもあった林田茂雄は、「もっとも確信的な友情というのは、主義や思想が同じもの同士、つまりは「同士愛」ではないかといっていたが、宗教や政党や労働団体や反戦団体もそういうものの範疇である。接点があることで、分かりたいけど分かり合えないという労苦がない。しかし、それが人間的な興味だろうか?
イズムやイデオロギーがそういうものであっても、それらを排した人間同士の、純粋な機微に触れることの方が自分にとっては興味としての度合いが高い。イズムやイデオロギー外のところで、人と人の触れ合い、情を感じあう経験をしてきたことでいうなら、人間は間違いなく孤独である。孤独である同士が特別の何かではない、普通の何かと触れ合えることを「情」という。