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Channel: 死ぬまで生きよう!
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良い人…? ⑤

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「でしゃばり女」でありながら、「良い人」意識を自覚する女性がいる。誰とはいわぬが、事あるごとに、「誰もいわないので言わせてもらう」と勝手にでてくる。控えめで謙遜という風に映るが、自身の出しゃばり性向を、「出しゃばりではないですよ~」とフォローしているところが見え透いている。出しゃばり男や出たがり男もいるが、黙ってじっとしている方が男らしい。

あちこちに顔を出して持論をぶちまけるのは、「調子者」にしか映らない。10歳にも満たない子どもの頃にこんな歌が流行った。「でしゃばりおよねに手をひかれ、愛ちゃんは太郎のよめになる」。「愛ちゃんという女性が太郎という男のお嫁さんになる」そのことの意味は理解できた。問題は、「でしゃばりおよね」で、子どもには何のことやらさっぱりだった。


およねという出しゃばり女がいて、彼女が愛ちゃんという女性の縁談の世話をした様子が伺えるが、これは愛ちゃんに片恋慕する男の失恋の歌である。「出しゃばりおよねに手を引かれ」の意味は、およねという女の画策によって、愛ちゃんは嫁ぐことになったということ。「でしゃばりおよね」とは、何とも刺激的な歌詞だが、およねという女に対する男の恨みの心情か。

自由恋愛の珍しい時代、近隣の男女の縁結びに勤しむ世話好き女たちがいた。男女の縁結びに大いに貢献した。見方を変えれば、「でしゃばり女」は必要悪どころか、絶対不可欠な人たちだったかも知れない。男の失恋の歌なので愛ちゃんの気持ちは分からないが、あの時代の「嫁ぐ」というのは、善悪良否を超えた女性の義務意識だったろう。現代のでしゃばり女を以下に記す。

「会社にすごく出しゃばりな人がいます。色んなことにしゃしゃり出てきては場を乱し、これ以上ないくらい散らかして満足(?)すると、『あとはそっちで勝手にやって』的に去っていきます。頼んでもないのに出て来て、中途半端に投げ出すくらいなら『最初から出てくるな!』と言いたい。散らかされた後の掃除(尻拭い)が大変です。ダイソンかルンバが欲しいです。」

 ・ 人の役に立ちたいと思っている
 ・↑と同時に感謝されたい!気持ちが強い
 ・気が利いてるつもりになっている
 ・勘違いしやすい
 ・飽きっぽい
 ・小さい頃、班長とか
 ・持ち上げられたら1000%受け取る
 ・空気が読めない
 ・地獄耳
 ・耳年増
 ・Going my wayという名の強引
 ・指図するのが快感
 ・上から目線
 ・相手がしてほしいことより、自分がしてあげたいこと優先
 ・人間界を二つに分けたら振り回す側

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などと、「でしゃばり女」の分析がなされているが、随分多くの要素をお持ちのようで、すべてというわけではなく、いくつか該当すればそれはもう天下に蔓延る「出しゃばり女」ということになる。天下に蔓延ってもらっては迷惑だが、そういう人間がいる以上は、文句をいうより対処法の方が大事だろう。現に世のなかいろんな種の人間がいる。「文句より対処法」が大事である。

文句ばかりで荒んでる人は、対処法がうまくやれないからだ。逆に対処法に秀でる人はどんな人間であれ、「どうってことない」となる。そういうカンに障る人間には、「でしゃばってこないで!」というのが最も効果的だが、狭い社会での人間関係に支障をきたしたくないなら、同じ意味の言葉をやんわりというのがいい。率直な自分も経年でやんわりに変わった。

若き率直時代に比べると、能力が身についたのかも知れない。相手の自尊心を壊して喜ぶことはなくなったということでもある。自尊心の張り合い、せめぎ合い、これはいかにもエネルギッシュな蒼き時代の生き方である。食うか、食われるか、こちらが食わねば食われるという切迫感があったかも知れない。そうではないのに、勝手にそう感じていたのかも知れない。

老齢になると自尊心をむき出しにせずとも、簡単に自尊心が壊されることはない。これを、「達観」といってもいいのだろう。「達観」とは、相手の腹の底が見えることでもある。なんとも人は、経年で能力を向上させるものだろうか。若き時代には絶対にありえない落ち着きや態度は、長く生きた証であろう。反面、いくつになっても自尊心むき出しの子ども老人もいるから面白い。

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「やんわり」の言い方はいろいろあろう。主旨は、「余計なことはせんでいい」であるから、「こっちはこっちでやるから…」とか、状況や内容によってもいい方は変わる。「出しゃばり女」は、いいとこどりをしたいだけで、最後まで責任を持とうなど毛頭ない。だから、「いうだけは楽よね、責任はないから」、「他人のことより自分のことを考えたら?」と、これは言いすぎか?

相手は善意と思っている押し付けだから、断ることでいい気持ちはしないだろうが、そこに遠慮をする必要はない。相手をいい気分にさせたままで、うまく、まるく、「事を収める」のは至難であると知るべきだ。日本人は、嫌なことを押し付けられたにも拘わらず、相手に「NO!」をいい難い小心者。男社会なら遠慮せずにハッキリいうから、あとの腐れがない。

自分にとっての、「嫌」が大事なのだ。自分の嫌に気分を害されても罪はない。協調を旨とする女社会、戦いと反動の男社会なら、なおさら遠慮は無用である。「いいたいことが言えない社会で人は心を病む」。「他人に自分を支配させる必要などない」。「自分の責任は自らの行動において取る」。「自分の人生は自分のものとてきぱき生きる」。などが男の生き方の基本となる。

「強く生きる」ということは、他人に嫌われることである。自分を主張して嫌われても、それは相手の問題で、自分が罪を背負う必要がない。これが道理だ。自分の言葉が気に障ったと感じることは、対人関係においてはあろう、ならば気に障らないような物言いを心がければいい。やみくもに相手を怒らせたいわけではないが、配慮しても気分を害すのは相手の問題だ。

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「良い子の悲劇」という。親が機嫌が悪くなったときに子どもは、自分に原因があると感じるが、子どに罪があるのだとあからさまにいう親もいる。そのことがどれだけ子どもを傷つけるかを親は考えない。いや、考えても気分が荒んでいるので子どもを責めなければ気持ちが収まらない。子どもが傷つこうがどうなろうが問題じゃない。自分の情緒の安定が大事なのだろう。

「良い子」でいることでこんなにも辛い思いをしなければならないのなら、母親離れがいかに大切かということになる。子どもは無力である。親に良いことをすれば褒められ、気に障ること(悪いこと)をすれば邪険にされ、罰まで与えられる。こんな恣意的で感情的な子育てはいじめであって、こんな母に育てられた子どもの心が屈折しない方が、歪まない方がどうかしている。

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