「良い人」とは何で、どんな人が「良い人」なのか。自分は「良い人」なのか…、などをいろいろ考えてきた。そうすることで、「良い人」がどんな人かを分かってきたが、前回の記事に書いた「良い人」の定義というのは、愚直なまでに心の純粋な人ではないかに至る。新聞配達中に、溝に車輪を落とした状況を見て、即座に人を集めてくれたSさんの愚直な行動である。
どちらかといえば、「愚直」はあまり良い意味に使われなかったりするようで、おそらく「愚かなほどに真っ直ぐ」という文字通りの意味が、正直すぎるあまり臨機応変な行動をとれていないことを表したりする。決して、「愚か」というのではなく、他のことを考えず一心にバカみたいに真剣に行なう人を指すあまり、侮蔑的な意味での用いられ方をするようになった。
「愚直」は本当は良い意味である。曲がったことが許せない、嘘がつけないことから、結果的に自分が損をしてしまうような「愚直な人」を揶揄されることはあっても、意味自体は誉め言葉である。したがって、「愚直に生きる」とは、「一生懸命ただひたすら生きる」という意味になるが、そういう人間を、「どんくさい」、「融通が利かない」と見下す人は少なくない。
まあ、人はどうあれ自分がどう感じるかである。「愚直」に似た言葉で、「実直」というのはは誠実で正直で、裏表のないことを表す。これは100%誉め言葉で使われる。つまり「愚直」というのは、誠実で正直で、裏表のない実直さに加えて、臨機応変の行動をとれていないことを指すわけだが、「臨機応変の行動」というのが人の能力であるなら、愚直な人間にそれはない。
だからといって非難されるべきではない。自分は自分を、「愚直」な人間とは思わない。これまでも今後も愚直には生きられないだろう。ということは、自分は「良い人」ではない。なぜなら、自分の思う「良い人」の定義は、「愚直」である。Sさんのように、新聞配達という決められた時間内での仕事中に、クルマの車輪が溝に落ちていてもあのような行動はしなかった。
確かに困っている状況であり、それを目にしたところで、仕事を優先するであろう自分は「愚直」ではないと、自分で自分を理解している。そんなに仕事が大切なのか?確かに仕事は義務と責任感によってなされるものだ。が、困っている人を無視してまで果たすべきものなのか?自分はそのようにするが、それは正しいからではなく、愚直さのない自分の判断行動である。
ところが、愚直なSさんは、困っている人を優先した。いろいろな事由はあれども、「困っている人を放っておけない」という純粋な行動は、彼が愚直だからこそできるのだ。明らかに彼は、「良い人」で、残念ながら自分は、「良い人」でない。思い出すのは村田奈津恵さんのこと。彼女は横浜市内の踏切内で、男性を助けようとして電車にはねられ死亡した女性である。
事故は2013年10月1日に起こったから、あれからもう5年が経った。国は彼女の勇気を讃えて叙勲をしたが、「勇気」という言葉には抵抗がある。彼女は勇気をもって踏切内に入ったとは思わない。彼女は勇気の保有者ではなく、愚直なまでに純粋な人であり、愚直なまでに良い人、善人だったと理解する。国は、「彼女の勇気」といっても、「彼女の愚直さを讃える」とはいわない。
自らの命を犠牲にして人の命を救うことが美しいのではない。それは結果であって、けっして彼女が死にたかったわけではない。愚直でない自分ですらその場にいたら救いたいと思う。が、自らの命を犠牲にしたくはないから、最大限の注意をはらって踏切内に侵入する。「救える・救えない」の状況判断であり、結果として救えないなら仕方がない。村田さんの状況判断はどうであったのか?
結果的に彼女は命を落としたが、命を落とさずに救い出せる結果もあった。労むなしく助けられない結果もあった。が、彼女が命を落としたのは不運もあろうが、間違いなく状況判断も影響した。決して彼女を責めているのではなく、リスクの管理は大事なことだ。善を行うにあたって神仏の御利益は妄想である。信仰とは、神に捧げることで、神に期待するものでも求めるものではない。
初詣でお賽銭を投げ入れて、都合のよいお願いをする我々は、決して信仰に殉じるものではないのだ。信仰が幸せをもたらすというような宗教もあるが、果たして御利益というのはあるのだろうか?あれば入信し、ないならしないというのは虫が良すぎる。信仰が徳をもたらすのか、徳の所有者が敬虔なる信者であるのか、神に願かけだけの不純な信仰者は少なくない。
「良い人」は「愚直」である。というのは、偏った考えかも知れぬが、「愚直」と無縁の自分が「良い人」でないのは間違いない。それでも自分は「良い人」を目指して生きているが、限りある命の中で得られる自信はない。「人生」とは人の生きざまをいい、「人生論」とはそれを言葉にしたものをいう。多くの人が人間の人生について論じているが、根幹は何を成すかと問うている。
自分も人生は折り返してはいるが、多くのことを成してきた。が、何ひとつ成してきてはいないというのも事実。多くの「人生論」には、「人間は何を成したか」、「どう生きたか」、さらには、「どう生きるべきか」というのが、人生論の核になっている。そうした仰々しい人生論は自分に合わない。ならば自分に合うための自分用の、「人生論」を考えればいいのでは。
人が生を得て死に向かう過程を人生という。究極的に人間は死ぬために生きているが、死が目的ではない。多くの人たちは短い命を生きた。別の多くの人たちは長い命を生きた。長い、短いの規準は恣意的なものだが、人間はいつまで生きるべきなのか?「人の命は人が決められない。時が決めるのだ!」というが、それもおかしい。時に人の命を左右できる力などない。
ある年、ある月、ある日に死んだのは、時が命を奪ったのではなく、命を終えた時を記しているに過ぎない。人の命は何によって決められているのか?漠然とした問いだが、「人は時に敵って死ぬのではないか」という漠然とした考えが浮かんでくる。「時に敵う」とはどういうことであろうか。運命論者ではない自分であれ、人の寿命の長短は命運としか言いようがない。
「人は時に敵って生き、時に敵って死ぬ」。これ以外にいいようがない。人にとって死は最大の事件であり、人が死を大袈裟に考えてしまうのは、唯一でかけがえのないものだからであろう。唯一のものを大事にするのは誰も一緒だが、それなら自死に赴く人たちの心中とは?おそらく、彼らも彼らなりの、「時に敵った」生であったのだ。自らの命を自ら終わる自由はある。
「自殺は人の最後の自由」といわれるように…。なぜに自死を望むのかが分からないように、自死に行き着く人たちは、人はなぜ生きていたいのか分からない。生の論理、死の論理、いずれも人間固有のものである。ただ、命あるものがその限られたなかで、「生」を完成させられかといえば、おそらく無理と思われるが、多くの人は、「満足だった」、「幸せな人生だった」と言葉を残す。
果たして後悔のない人間がいるだろうか?その日、その場でいくつもの手段の中から一つを選びだし、決定することがどうして最善といえるのか?『後悔しない生き方』なんて本を書くバカもいれば、買うバカもいる。後悔し、試行錯誤をしながら生きていくのが人生であるなら、自殺の最大の欠陥は、「永遠に後悔できない」。そんなつまらないこと、だから自殺には反対する。