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良い人…? ③

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「良い人」、「悪い人」のあからさまな対比は児童文学の定番だ。実社会では人間の「良し悪し」は分かりにくいので、「好き嫌い」で対応することが多くなるが、好きな人間はやはり自分にとって「良い人」のようだが、厳密にいえば「良い人」と「好きな人」は別であって、ならば「良い人」というのは先の例にあげた新聞販売店のSさん無為・無償の善行などであろう。

早朝にクルマが側溝に落ちて困っていた。朝の新聞配達は忙しい時間帯にありながら、放置できない状況からわざわざ引き返して仲間を連れてくるという善意は、分かってはいても暇で悠長な時間ではないこともある。仕事に支障があろうとも善意を優先する人というのは、感情や理性の枠を超えた本質的な「善」の所有者ではないか。仕事中の咄嗟の人命救助も同じ行為であろう。

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Sさんは顔見知りだが言葉を交えたのは初めてで、様子や話しぶりからも「良い人」らしさは十分に伝わった。後で友人に話したとき、「Sさんいい人よ。自分と同じPTAの体育部会部長を長くやっていて、挨拶や取り組み方もユニークで部員からも慕われた人だった」と、そんな話を聞かせてくれた。Sさん兄弟ともに中高の部活は野球部に所属、活躍ぶりは耳にしていた。

自分の正直な遠慮なしにいうなら、あまりに愚直で躊躇ったり思考したりの様子はまるでなかった。そんな行動の愚直こそが善人の証といえるかも知れない。つまり、真の善人は、寝たり食ったりするがごとく当たり前に善を行う。一心に熱心に己がためごとくに行動し他意がない。「良い人」・「善人」という人たちの定義を、あの時のSさんの体験で得たような気がする。

「良い人」というのは「良い心」にまみれていると思われる。少し前、「良心」について書いてみたが、「良心」というのは、なかなかつかみどころのないものだ。「良い本を読みたい」とか、「美味しいものを食べたい」というような、良心の声を聞くこともできない。まあ、我々のような平凡な人間は、一定のわずかな収入で細々と生きながらえながら暮らしているわけだ。

銀座の高級寿司屋に行ったというようなことをブログに書くこともない。そうした平凡な日常のなかに、果たして良心などというものがあるのかないのかすら分からない。あるとしても必要なものかどうかも分からない。思うに、「良心」というやつは、人間が日常生活のなかで、なんらかの緊急事態や非常事態という局面にぶつかったときに現れるようなものではないか。

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言葉からしても、「良心」が大事であるのは分かるが、つまり朝から晩まで良心が働きづくめであるということでもなかろう。「お前の良心に聞いてみろ」とか、「良心に恥じない行動をせよ」とか、いわれもし、いったこともあるが、そうはいうものの、良心が何かを説明はしない。それくらいに曖昧なものなのだろう。しかし、実際に生活するなかで、自分の良心に問いかけることはある。

良心に問うというくらいだから、おそらく良心を犯しかねない状況なのだろう。そういう場合に良心に問うことで、良心に従おうとする。あるいは、良心を裏切ろうとする。確かに、「良心」とは善悪を判断するための要素である。「良心」をある人は、「内なる光」と呼び、別のある人は、「公平なる傍観者」などという。なるほど言い得て妙、分かりやすい表現である。

しかし、「良心が公平な傍観者」であるなら、この内なる傍観者は、どういう基準に照らして我々の考え方や行動を、善いとか悪いとかという判定をくだすのか。これを自分なりに思考してみると、つまり何らかの行動を前に、「良心」に問いはすれど、「邪心」に問わない。ということは、邪心の誘惑の只中に人間がいるということになる。そこで「良心」の判断を仰ぐようだ。

反対にこういうこともあるのだろう。正直で真面目な善人が、何か悪いことを行う機会に遭遇したとき、その悪の行動を行うかどうかを自らの、「邪心」に問うことになるのか?そうしたあげく、邪心による強い命令が下ったとき、正直で真面目な善人は悪を行為する。そういう図式なのか?分からない。人が悪行を行うときは邪心の支持を仰ぐのか、それとも良心に敗北したからか。

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とにかく暫くはこの二つの良心について考えてみたいと思うが、なかなか答えは得れそうもない。よく、完全な人間とか、完璧な人間などというが、それはどういう人間なのか?果たしてそんな人間がいるのか?「完全」とか、「完璧」とかも曖昧な言葉である。「良心」とは、人間的に振舞おうとする精神のことだといっても、人間的に振舞うとかこれまたどういうことなのか?

なんていうのか、そのように立ち止まって考えると、「知る」ということがどれだけ大変なことであるかというしかない。「知るということはどういうことか。それを教えてやろうかと、孔子はあるとき弟子にいった。「知っていないことを知っていないのだと知り、知っていることを知っているとする――これが知るということだ」。果たして弟子は有難い話と思ったのだろうか?

少しばかりいちゃもんをつけるなら、「知っていること」と、「知っていないこと」とを、こんなにハッキリ区別することができるのだろうか?日常のことで考えてみるが、電気製品を動かすためには電気がいる。掃除機も洗濯機も電気がなければ動かない。だから、コンセントに差し込んで電気をもらうのだが、電気というのはコンセントのところに来ているのだろうか?仮にそうであるとして、我々が電気の正体というものについて、どれ程知っていよう。

テレビの映像も電波で届く。してその電波を受信することで映像や音声が画面に届く仕掛けについて何も知らない。まあ、知らなくても困ることはない。人に親切にすることを善いことだという。だが、善いとはどういうことなのか?自身の良心とやらが満たされることなのか?それとも、親切にされた相手を喜ばすことが善いことなのか?問い詰めていけば何ひとつ知ってはいない。

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妻はこういう女。夫はこういう男。などと考えて生活を営んでいるが、「こういう女(男)」は正しいのか?おそらく、「つもり」であろう。孔子の弟子の答えですら、「知ったつもり」のいい加減な態度を示したと思われる。「人の言ったことを学ぶだけで、自ら考えないなら相不変で蒙昧、人の言ったことを学ばないで、自分で考えるだけは物騒だ」と、これも孔子の言葉。

ならば、学んでそして考えることが大切だといえば事は簡単だが、実際においては、「学ぶことと考えること」のけじめが難しい。「自分は無知であることを知ること」がいかに尊いことであるかを物語るように、人間は知ったかぶりをする。そのことからしても、孔子の言葉は確信的であろう。「良い人」とは、「自分は何も知らないことを知る人」たちということにもなろうか…。

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