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良い人…? ②

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自分の知る人間においての「良い人」と書いた。見たことも会ったこともない人物の評伝を書くより、知る人間の方が説得力が勝ろう。「良い人」とは、「好む人」が分かりやすいとしたが、頭に浮かんだ良い人の筆頭はSさんである。彼の親切は忘れたことはなく、思い出すことに苦労はない。1986年2月9日の早朝6時頃、その日は待望のハレー彗星の近日点通過だった。

近日点とは、太陽系の惑星・彗星などが軌道上最も太陽に接近する点で、地球から見て観測に適した日のこと。76年周期のハレー彗星を待ちわびた子どものある日、学校の図書室で図鑑を見ながら、「早く35歳にならないかな~」などと指折り数えた記憶がある。念じて大人になるわけないが、ひたすらその日を待ちわびたが、中学~高校には天文への興味は薄れていた。

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それでも子ども時代の思いを実現させたいと早朝に起床、家族全員を先導して見晴らしのよい海岸べりにクルマを飛ばした。夏場は海水浴場で賑わう場所も2月では何の変哲もない。その辺りをクルマでうろうろしてるうちに、タイヤを側溝に落としてしまった。あれあれ、これはどうにもならないと愕然としていたところに、新聞配達員が通りかかり、こちらに寄ってきた。

よく見ると読売新聞販売店の経営者であるSさんだった。弟は同級生で彼は二級上に兄だった。状況を把握すると、「すぐに人を呼んでくるから待ってて!」と仕事中にも拘わらず、自宅に戻り男を二人連れて現れた。二人とSさんと自分の4人でクルマを持ち上げ、側溝に落ちたタイヤを脱出させた。彼らはすぐにそのまま仕事に行ったが、難を逃れてほっとした自分である。

近日点通過時刻は6時40分だったが、期待に添わず写真で見るハレー彗星ではなかった。ボヤ~とした豆粒のハレー彗星は、多くの観測者をがっかりさせたとの報道だった。次回の76年後は100歳を超えているから、文字通り最後のハレー彗星である。ところで、Sさんの善意・親切に自分は報いたいし、そのためには現在の毎日新聞から読売新聞にすべきかどうかを考えた。

毎日新聞を購読する理由は、『将棋名人戦』の主催紙であったからだ。当時読売は『十段戦』(現在の『竜王戦』の前進)である。お礼を兼ねて販売店に立ち寄るためには、何より読売新聞を購読するのが何よりであろうと、そのことは分かっている。数日間、熟慮した結果、改めてお礼にも行かず、読売購読には至らなかった。善意に対する暗黙の義務感に自分は屈しなかった。

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非礼であると自分を責めたが、自分に無理をしなかったからか、30年以上を経てもSさんの善意・親切がいささかも消えずに心にとどまっている。あの時の彼のとっさの行動は、無償の善意以外の何ものでもない。商売上の利害も何もあったとは思わない。その後に、新聞を購読してくれるかも…といった細やかな希望はあったかも知れないし、なかったかも知れない。

自分たちは義理や人情を重く受け止める世代であるがゆえに、心が大きく揺れていたが、最終的に自分はSさんの無償の親切には応えなかった。そうして今現在も、あの時の判断は正しかったと悔いはない。購読する理由のない読売新聞を、自分に無理をしてとったとしても、それだとSさんのあの親切を、純粋に善意とは感じなくなろう。どれでもいいなら替えていたと思う。

情緒に流されず、おもねることなく購読紙替えないでよかった。読売をとったのちに後悔することも発生しなかったことで、Sさんの善意を永遠のものにできた。Sさんは自分にとっての「良い人」の一人となっている。よもや彼はそんなことを思われているなど思いもよらないことだろう。あの時の決断はまさにそれ、「自分が後悔するかしないか」という判断だった。

「良い人」を永遠に留めていくためには、いささかも自分が無理をしないことである。善意に対して自分は報いた、返したという気持ちはその後になっていつしか負担になる可能性もある。「あの時、あれをしなければよかった」という可能性もないとは言えない。自分が悔いれば、相手の善意を多少なり責めることにもなりかねない。義理を果たさぬことで永遠の借りを作るのだ。

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「良い人」を永遠に、「良い人」と置いておくために、何をすべきで何をすべきでないかを経験したことになる。人は人から受けた親切に、その場の気分でついつい必要以上におもねることがある。親切を仇にしない人間と思われたい、義理をちゃんと返す人間でありたい、相手からも称賛を浴びたい、いかばかりか、無意識かの気持ちが発生するが、心鬼にして無理をしないことだ。

人という字は支え合うという象形だから、持ちつ持たれつであるべきだが、そこに無理が入り込むと後々負担になる。それを読み切るための強い意志も人間社会には必要だろう。「義理も果たさぬ冷たい奴」と思われることがあろうと、「義理も果たさぬ冷たい奴」などと思う心が邪悪なのだと理解する。この手をよく使うのが親。無償の善意がこうなっては親といえども醜い。

自分がそれをしないことは、自分も要求しないことでもある。おそらく義理や人情にうるさい人は、それを要求する人に違いない。「自分がそれをしないでいる」ことは、「自分はそれにならないこと」であるのを、強く噛みしめていける人間なら、筋が通っている。礼儀正しい人は相手の礼儀にもうるさいものだ。自分は礼儀正しくとも、相手にそれを望まないのは人格である。

シラーといえば、ベートーベンの第九交響曲『歓喜の歌』の作詞で有名だが、彼の言葉にこういうのがある。「ぼくは友人に尽くしたいんだが、残念ながら好きでするのだ。で、ぼくはしばしば思い悩む。自分は有徳者ではないのだと…」。メロスの行為が感動的なのは、彼の行為が義務づいているからではなく、単に友情に基づいているからである。友情とは無償を旨とする。

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これを恋愛に当て嵌めるとどうだろうか。恋愛には「愛」の文字がある。「愛」は無償であるからこそ輝くというが、果たして男と女の恋愛が無償で成り立つものだろうか?「女は自分がいただいたものだけの分量の愛を返す」という。それならまだしも、100円のチョコを贈って1000円のものを期待する女性もいる。と、体験はないがホワイトデーとはそういうものでは?

これが今に始まったものではない女のしたたかさというなら、自分なら速攻で、「さいなら」する。女が輝いて美しいのは人を愛する女である。「愛されることは滅びゆくものだが、愛することは持続する」と、リルケの美しい詩があるが、愛することも持続しない。愛は決して永遠ではない。しかし、随分と長く続くものもある。が、男と女は美しい言葉で彩られたいものだ。

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