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良い人…? ①

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この表題は必然的に、「悪い人…?」を内包する。言葉でしゃべる時はマンガのふきだしのように字は出てはこないが、文を書くときには、「良い」がいいのか、「善い」がいいのか迷うことがある。大辞林には、「良い」と、「善い」は1つの項目として載っている。ということは、"辞書的な定義としては同じ"ということになるが、厳密には使い分けが必要である。

辞書の記述がすべてということでもないようだ。「良い」の一般的な使い方として、「品質が良い」、「頭が良い」、「体調が良い」、「良い文章」など、全ての「よい」に使える。一方、「善い」は読んで字の如しで、道徳的に正しいの意味で使われる。簡単にいえば、「悪に対する善」となる。「良い子」とすれば、「物事が他のものより優れている子」という意味。

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「善い子」と表記しないのは子どもであるからで、子どもの言動を善悪の基準としてあまり捉えないからだが、子ども時代を過ぎれば道徳的な「善人」という言葉で評される。そこで、「良い人間」、「悪い人間」というのをどのように使うか?まら、それに該当する人間とはどのような人間をいうのか?自分の知るところの人間に自分がどういう理由を当て嵌めているのかを考えた。

いうまでもない人間の、「良し悪し」には、どうしても倫理的なものが含まれる。どうも倫理というのは苦手な領域である。その理由として、「倫理」というやつは、"固い殻の奥"にありそうな気がする。不倫は倫理にあらずという程度の倫理なら猫にでも分かりそうだが、哲学者たちの、「倫理」についての思索は難解である。まあ、自分は哲学者ではないからいい。

とはいっても、自由主義者にはどうしても倫理という壁にぶつかり、倫理と自由のはざまで思考が混濁する。自由は倫理を超えるものか?倫理の枠内での自由なのか?「不倫はよくない」、「不倫は非道徳的だ」と、これは誰にも分かる論理。なのになぜ不倫が横行するのか?自由を求めるからである。規則や道徳的「禁」を犯すことで人は自由を体現できるのだろう。

夫婦以外のあらゆる男女の性愛を不倫として断罪するそこいらのおばさんはさておき、「不倫はダメ」の理由は社会の秩序の崩壊になるからである。それを認めれば結婚制度は意味をなさず、結婚制度を土台に築かれた社会は秩序を維持できないのは中高生でも分かる論理。近年の箍が外れたかのような不倫ブームは、「いいじゃないの、道徳的人間でなくても」ということか。

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もし許されるなら、自分の嫁でない他人と嫁とイタシたいだろう。が、「もし許されるなら」という前置きは、「誰が(許すか)」である。嫁の夫が許すハズはない。我が嫁も許さない。だとすれば誰が許すのか?本人(人妻)ということになる。なるほど…。だったらこういう風に口説けばいい。「もし、あなたが許すならイタシたいのだけれども、いかがなものでございましょう」。

「嫌です!あなた何を言ってるの。ダメに決まってるでしょう」というのが道徳的な返答である。まあ、これは道徳的な返事をしただけで、心のなかは違っているかもしれない。そこでこのように追い打ちをかけてみる。「嫌よ、嫌よもいいのうち…という言葉からすれば、今の言葉は『いいわ』と受け取れますが、ダメに決まってるって、何が何にダメなんですか?」

「そんなこと分かってるでしょう?私は人妻なんだからね」。と、こういう会話になれば堕ちたも同然というのが自分の解釈だ。「もっと口説いて、もっと強引に…」という女性の心理を分かる男は得な性格だ。男は女性にとって、「善い人」である必要はない。男が言葉巧みに女の武装を取り払ってくれたなら、「あなたって強引なのね」という口実を用意すればいい。

と、こんなところで口説き講座なんかやってる場合ではないし、もうそういうのは卒業してしまった。「あなたって悪い男ね」と女はいいつつ、善人ぶって実は悪い女。だから、「わたしも悪い女なのね」などともいう。良いとか悪いとか、善とか悪とか、簡単にいってしまえるが、人間なんてのは一見単純に見えても、意識的・あるいは無意識的に実存的な存在といえよう。

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「主義」や、「イズム(-ism)」といわれるイデオロギーが、一体どれだけの数あるかを知らぬが、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場、本質存在 (essentia) に対する現実存在 (existentia) の優位を説く思想を「実存主義」といい、これがもっとも人間的なものではないか。当初の日本語訳は、「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して、「実存」とした。

例えていえば、一人の人間の中にも矛盾があり、あるケースににおいては、同一人物であっても、好きにもなれば嫌いにもなるものだろうし、自分自身においてもそういう経験はいくらでもある。ということなら、人間についての、「良し悪し」というのは、「好き嫌い」とした方が分かりやすいのでは?先日、といっても本年の正月21日、保守派の評論家西部邁が自殺した。

他人の手を借りた自殺で、手を貸した西部の心酔者二名は自殺幇助罪で逮捕・起訴された。これに対して西部の長女は朝日新聞の取材に対し、「生前本当によくして下さった方々。父の自殺にお二人を巻き込んでしまい本当に申し訳ない」と語り、「お二人が自殺を手助けしたというのなら、父の自殺の意志を変えることができなかった娘の私も同罪です」と涙声で話した。

「三島由紀夫は皇居前で一人腹を切るべきだった」という論評もある。それなら若者を道連れにしなくて済んだということ。三島も西部も他人を巻き添えにした点については孤独者たり得なかったのだろう。ビルから落ちても電車に飛び込んでも内臓は散乱するし、首を吊っても脱糞したりと、人に迷惑をかけない死に方というのは、一人で樹海の奥深く入り込むしかない。


一人暮らし者がアパートで自殺すれば、その部屋は永遠に空き部屋になる。「この部屋にて自殺者あり。よって家賃は五分の一」で、借り手があればいいが、重要説明事項で告げる義務がある。映画『飢餓海峡』のラスト、青函連絡船から容疑者が海に飛び込む場面は、海の藻屑となって誰にも迷惑がかからない。迷惑なのは飛び降り自殺で通行人が巻き添えになること。

三原山自殺や華厳の滝自殺はインパクトがあったせいか、後追い自殺が数百人も続いてちょっとしたブームになったが、いくらブームとはいえ自殺がブームというのはいかなる世相だったのか。明治の文人川上眉山の自殺理由も印象深い。「愛、妻子の外に出でざる者は痴なり」と彼は書き残している。40歳の男盛りであったが、妻以外の女性を愛したことを恥じたのだ。

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