長くいわれてきた「母性本能」というものが、非科学的で根拠のないものだと科学的に推認される時代になっている。その魁となったのは、フランスの哲学者で歴史学者でもあるエリザベート・バダンテール(Élisabeth Badinter; 1944年3月5日 - )の著書『母性という神話』である。フランスにおける多様なフェミニズム論の一研究との批判もあるが、彼女はこのように述べる。
「いわゆる『母性愛』は本能などではなく、母親と子どもの日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。それを『本能』とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想である」。母性本能という概念はどういう経緯で生まれたか?「そもそもこの『母性本能』という考え方は、女性の慈悲深い愛情を称えて言われるようになったのでは決してありません。
むしろその逆で、女性を蔑視し差別するために言われるようになったものなのです。進化論の考え方では、女性は男性のように優れた能力を持つように進化しなかった、つまり、女性は進化が途中で止まった生き物であり、そのために男性のような優れた能力を持つことが出来なかった存在だとされていました。それゆえ、女性は男性に比べて能力が劣る生き物だとされていたのです。
だからこそ女性には、子どもを産み育てることに無条件の喜びを感じ、どんな場合でも子どもを無条件に愛する『母性本能』が備わっているのだ」とされたのです。ジェンダー論を背景にした考えといえなくもないが、最終章の、「だから男はずるいんだ」的な主張には違和を感じるが、ともかく動物の本能習性に比べて人間の本能が壊れていることは間違いのないこと。
また、「母親のいかなる普遍的かつ必然的な行動」などはなく、 「母性は感情である」とさえ言明している。その点については同意する。若者に話を戻す。子ども自身は無力と未熟さを自覚をすることはさほどないが、青年期にはそれらが劣等感という形で噴出する。子どもは単にできることをやろうとするが、人にできて自分にできないことに悩むようになるのが青年期。
他人と自分を比べるようになる自我期において、それは劣等感となって現れる。「なんでわたしはこんなに不細工なの?」、「どうして俺はイケメンじゃないのだ!」などと、他人の容姿よる劣る自分に嫌気がさす。運命とは言うまでもない、他人と自分との差異の現れだが、どうすることもできないから運命を憎む。それで気持ちが晴れればよいがどうなのか?
もし、人間が他人と比較しない、他人との差異を問題にしない、自分自身の、「伸び」だけを問題にするのなら、言葉通りに、「伸び伸び」と生きられるだろう。それができないのは人間が欲な生き物であって、こういう例もある。ある美人の女性が自分の容貌に劣等感を抱いていた。「何でと?」誰が見ても申し分のない美人であるが、彼女は姉と自分を比べていたのだ。
秀吉は困窮する農民に、「上を見て暮らすな、下をみろ」と諭した知恵者であった。そのために、「穢多」・「非人」という階層を作り出した。校内で一番の成績をとる者でも、兄のあまりに秀才ぶりに劣等感を抱くようにである。こうした事例から見出すべくは、「他人は他人、自分は自分だ」という悟りである。悟るまでもない現実だが、「悟る」というほどに難しいことなのか。
「他人を気にしないで暮らすことの楽しさ」を実感するが、青年期や若者というのは自分を誇張したがるものだ。他人からすれば何でもないことを気にしたり、自慢したりの若者が通例である。50歳、60歳になっても誇張が止められない者もいる。つまらんことやくだらぬ悩みを誇張するのは若者だけの特権ではないようだ。そうした誇張癖は、その人の内面の不安がもたらすもの。
若くてハゲの外国人俳優がこういった。「俺にハゲを与えし神に感謝している。俺には髪は似合わね~」。なんと逞しい言葉であるか。そこまで言える日本人を知らない。「髪があって当たり前」の概念を吹き飛ばし、「髪がないのが自分なのだ」と肯定する。「人と同じでないものは変」というのが子どもの心理であって、それが小中学生のいじめの要因になったりする。
「他人と違って当たり前」という情緒は子どもになく、だから他人との差異を気にする。『みにくいアヒルの子』などの児童文学で啓発もするが、子どもたちの現実志向に対する大人や教師たちの真剣なまなざしが必要である。そんな教育者不在の学校なら行く必要が感じられない。理不尽な仕打ちを受ける子どもたちを、自己保身しか頭にない教師が救えるハズがない。
自己保身の必要なき親が、「自分の顔は自分の顔」と笑って生きられる子に育てられる。森三中がデビューしたころ、ブスをものともせぬ存在感には好感をいだいた。彼女たちのあっけらかんとした性格がどう育まれたかに興味があった。「ブスでデブのなにが悪い。私たちは楽しく生きられますよ~」。そんな、周囲を圧倒するパワーは自己肯定権化者のようであった。
26歳女性から失恋メールが届く。多くを聞かずとも状況は読める。男と女は付き合いが長くなるほど相手の欠点を許容できるようになるものだが、細々したことを男がいい始めたら、「終わりの始まり」と認識すべし。欠点だらけ同士のハズなのに、女ばかりに文句をいい、我慢を強いる男に女の方はじっと耐え、時にそれが情緒不安定になって爆発することもあろう。
「ワガママは男の罪、それを許さないのは女の罪」という歌がある。男目線の男中心の言い分だが、女がそれを許すなら、時に彼女の気持ちが荒むくらい許容してやれ。とかく生理によって情緒が支配される女性は、昨日と今日が別人であれ、それを理解できぬは男の罪と、これは女性への憧憬の深いとされる作家の渡辺淳一氏の言葉である。そういえば彼は医師でもあった。
自分が自由に自分のままでいられる恋人って珍しいのか?若者はなぜに苦悩が絶えないのだろう。「若いという字は苦しい字に似てる」と、こういう歌詞があった。「苦しみと悩みは偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、恒に必然的なものである」。これはドストエフスキーの言葉であるが、これをを簡略すれば、「バカには苦しみも悩みもない」と言い換えられる。
若い人は、男も女ものべつくまなく悩み苦しむが、誰も人の悩みを解消することはできない。男の失恋、女の失恋を多く目にし、耳にしたが、幸福の探求を自由の探求と位置づける自分に、他人を救うことはできない。ただ、自由でいろ、自由に生きろ、人は自分の自由にはならないとしかいいようがない。実際そうであるし、にも拘わらず人は他人の無慈悲を哀しみ苦しむ。