「子どもの幸せのために…」といいながら親はレールを敷こうとするが、子どもは自分を守る権利がある。権利であって親のいいなりになる義務はない。親のいうこと、成すことが正しいと信じれるならいいが、そうでないと思ったら自分の意志を守るべきではないか。親に従わずして生きてきた自分だが、そうでなかったらどんなひ弱でヘタレな人間になっていたか。
想像するだけでゾッとする。親というのは親の手を噛まない飼い犬を作ろうとするようだ。親の手を噛まない人間が、社会の荒波の中で強く生きることができるだろうか?そう考えると、親は家庭のなかでいい子である人間を育てようとする。これがニートや引きこもりの一因ではないかと考える。父が祖父とお酒を酌み交わしながらふとこぼした言葉が脳裏に残っている。
「親のいうことを黙って聞いてるような子どもは、ロクな人間にならん」。祖父の長男は、中学を出て大阪に家出をし建設会社の社長になった。時に凄い外車にのって帰省したが、子どものころから自慢の叔父だった。母の弟だが、母にとっても自慢であったようなのに、それならなぜに息子を支配しようとするのだろう。女親というのはいつも目先だけのことしか頭にない。
人間が人間の思うような人生を生きていくのは難しい。ならば、せめて自分の思うように生きてみるべきと考える。大学教授の、官僚も、ジャーナリストも、医師も、俳優も、みんな自分の職業がもっとも価値あると信じているのだろうか。思うに、真に価値あるものは、自分が自分の意志と努力で欲して得たものではないか?その人の志こそが人間を偉大にするのではないのか。
母親の思考が子どもと同化するのは、我が子が自身の身体を削って生まれたことと関係するのだろうか?子どもは自分の一部という思いにいたるのだろうか?男親には分からないところである。そうであるゆえに母親は子どもとの関係でもっとも自分を抑制しなければならないはずだが、これは人間として明晰な部類であろう。親の経営する会社に息子を入れたときのように…
一流大を出た親のたまらない優越感を、子どもが同じように感じるとは限らないのに、優越感をそのまま子どもに委譲しようという発想はいかがなものか。一流の親から一流が生まれないのは、スポーツや芸術の世界では頻繁にある。一流ピアニストの子どもはみな三流である。ゴルフもテニスも野球も、最高の選手を指導者に持ちながら、なぜか一流から一流は生まれない。
いかに一流大を出た親の優越感が精神的支えであったとしても、それをそっくり子どもに持ち込もうとするのは正しい子育てだろうか?「正しい子育てなんか関係ない。とにかく子どもは親と同じ一流大に行ってもらわなきゃ。三流大だと親として立つ瀬がないでしょう」というのがホンネであろう。気持ちは分かるが、自分(親)の都合でする子育てって一体なんだろうか。
人間が精神的に成熟している一つの証とは、バランス感覚を所有した人である。一つの立場からのみ見たこと感じたことを気狂いのように主張したり、押し付けたりしない人間のことをいう。これは子に対する親だけではなく、人間関係においても大切なことだ。別の角度や他の立場から見たことと併せて考えられること。未成熟というのは、その点がハッキリしている。
つまり、一つの立場にしがみついているということだ。世の中には自分と他人という立場がある。そうした立場の違いによって物事はまったく異なって映るということを教えるのが真の教育ではないか。これはもう、親のキャパによるとしか言いようがない。「自分は真実しか言わない」、「正しいことしか言わない」という人は、他の視点から物を見ていないのがあからさまである。
ソニーやホンダという一流会社の創業者は息子を会社に入れなかった。数日前、ユニクロの創業者が二人の息子を同時に取締役にした。ということは三流会社ということになる。にも拘らず柳井氏は世襲は否定したが、表向きの非難をかわすためというのがもっぱらだが、既定の事実を作っておけばどのようにも変えられる。ブラック企業といわれた柳井会長の腹のなかは真っ黒。
母親は子どもにとって暴君となる可能性がたかいが、父親も理性を欠けば暴君である。母親は大草原で暮らしたらどうであろうか。父親の暴君を歯止めするのは、大邸宅から小さい家に住み替えたらどうか?暴君になるのはあまりの高い理想と、あり余る資産のやり場に困るからだろうが、「我が子に美田を残すな」と故人の教えがある。自ら耕し開墾せよ、ということだろう。
ベルサイユ宮殿に生まれた王子は当たり前にベルサイユ宮殿の王となる。人間が自分本位の考えによって、どれだけ多くのものを駄目にしたかは歴史が教えている。にもかかわらず、当事者になると見えなくなってしまうようだ。本当に子どものことを考える親なら、反抗を善とし強圧的に押しつぶすことをしない。薄弱な子どもは反抗しないが、正常な子どもは反抗するからだ。
親心の激しさはいうに及ばずだが、それをバカげた独善論と自分は考えた。親が子どもに夢中になるのは自分のためだからである。一例として、子どもがもし、「お母さん、本当にぼくのことを思うなら放っておいてください」といってどうするかを見ればわかる。子どもが何をいおうが親は自分が正しいと押し付ける。それが親がいうところの、「子どものため」なのだ。
子どもがやることは一つ。聞かないこと、無視すること。親の責任とは子どもを思い通りにしたか、できなかったかであって、子どもにとってそんな責任論などたまったものではない。「責任とってもらわなくて結構!」であろう。子どもも若者もどうしても年長の大人たちから強圧を受けることになるが、そうした親や周囲のエゴイズムにどう対処していくかが若者の将来を決める。
子どもは、若者は、そうした激しく厳しい周囲の外圧に一人で立ち向かわなければならない。それなら強い人間になるだろう。青年期の反抗というのは、自己本位な周囲の者たちによって阻害されかねない自分の人生を守るためである。「親による子殺しはなぜ起こるのか?」を考えるまでもなく、究極なエゴイズムの存在がそこにあるという考えに至る。決して難題ではなかった。
子どもを醜い、許せないと思う親は、自分自身がそうであることに気づかない。それで子どもに手を下す。ちょっと待った!自分自身の醜さに気づいて自らに手を下せよ!といいたくなる。だから人間は誰もが自己中であり自分勝手。織田信長の傅役平手政秀は、自らの命を賭けて信長に換言した。不良に手を焼く親は、遺書を置いて死ねば子どもは我に還るかも知れない。