気づいたら少数派に属していた。自分のことである。多数派はつまらなそうだった。当たり前のことを当たり前に考えるからで、さらにいうなら、見せかけの満足感に慣れきった奴らに見えた。少数派には小さいながらも自由があるように思えた。人と同じことをしなければならないのは、どこか不自由な感じがした。人と自分が違っているのが当たり前に思えた。
多数派に与する者は、人と自分が同じであることが心地よい。全ての人間がそうではないにしろ、それが多数派の拠り所か。少数派を反体制というのは間違いではないが、他人への承認欲求の希薄さと、物怖じしない自己主張が少数派の生きざまか。改革行動には数が必要だからと、少数派もスクラムを組むが自分はそれも好まない孤独志向。かつてロックも反体制とされた。
今のロックにそのイメージはない。ロックミュージックは純粋に音楽となる。今の時代、反体制の象徴って何なのか?アフロヘアーは消え、スキンヘッドも珍しくない。となると、タトゥくらいか?日本では刺青といったが、ヤクザの刺青と異なり、タトゥは市民権を得ているのか?日本ではもう少し時間がかかりそうだ。温泉地の露天風呂でもタトゥお断りの張り紙がある。
時代はどのように変わろうとしているのか?感じることは、あれはダメ、これはダメから、何でもオーケーの時代になりつつある。以前はダメだったものの多くが許容されている。その分、理想というものが手繰り寄せられる時代になってはいないだろうか?思うに青春期の若者は理想を求めた。しかもその理想は現実をふまえた理想ではなく、現実無視の理想だった気がする。
対人関係にも理想を求めた。親にも友人にも先生にも恋人にも理想を求めた。つまり、理想の親、友人、教師、恋人であることを望むのはいいが、少しでもその人たちが自分の理想にそぐわないとなると、途端に失望し、非難を始める。それほどに若者は純粋だったのだろう。純粋であること、潔癖であることは、ある面からいえば、寛大であることの反対ではないか。
すべてのことを相手に要求するのは若者の顕著な特徴だ。所詮は無理からぬことなのに無理ということも考えず、相手にすべてを要求していたようだ。自身を顧みても若者時代の未熟な象徴である。他人は自分のために生きているわけではないが、そんなことも分からず自分の思うように動いてくれないと腹を立てた。他人を自分の所有物のように思っているからだろう。
親もそんな風になりかねない。子を所有物とみなす親は少なくない。だから言うことを聞かないと腹を立てるが、子どもの意見や意志に聞く耳を持たない。親が傲慢であるもっとも顕著な例が、子どもに一流大学を望む親。大学に限らず、一流中学、一流高校を望む親も同類である。さらにいうなら、一流小学校や一流幼稚園を望む親たちを、「お受験」族と揶揄された。
これら自分の視点に見える親という化け物たち。と、そのようにいえばこう反論する。「子どものため」、「子どものことを考えるから」と、こんなありきたりの言葉は耳にタコができるほど聞いた。こんなような言葉を子どもにいう母親もいるという。「お父さんは、三流大にいったから会社でも苦労してるのよ。お前には同じような苦労をさせたくないの。わかるでしょう?
学歴のない人が世間でどんな風にみられてるか考えてみて。それを現実の社会で味わったものにしか分からないから、あなたに今そのことを分からせたいの。『勉強のとりこになって一流大なんか行く必要ない。もっとノビノビと青春時代を過ごすべき』なんていう人は、自分が一流大出てる人なのよ。一流大を出ていないために受けた差別に苦しんだ人の言葉じゃない」。
この母親は本当にそう思っているのだろう。本当に子どものために一流大を出るのが幸福と思っている。が、この考えのどこに見落としがあるかを考えてみる。受験戦争時代に率直で具体的な批判を耳目にすることは少ないが、「果たして子どもが母親と同じように物事や人生を感じるだろうか?」という点が欠落している。母親は子どもは自分と同じ考えと思い込んでいる。
子どもに同じように思わせようとしている。子どもの考えなどどうでもよく、親の価値観の刷り込みを行う。親は子を思いどおりにしたい。人間が同じことで喜び、同じことで苦しむわけではないという思考が頭から抜け落ちている。皆が同じ考えを持ち、同じ方向に向かっていくのが付和雷同。人と違っているのが良いというような、個性を重視しない日本人の特質だろう。
こうした親たちは本当に子どものことを考え、一流大学へと子どもを駆り立てていることは確かであるが、抜けているのは、子どもが親と同じようにものごとを感じると考えていることだ。親が悔しいと思うことを子どもが悔しいと思わないかも知れないのに、どうして一切を親の視点だけでで見てしまうのだろう。その答えは、「そういう親だから…」という以外にない。
また、そういう親にはこんなことを100回言っても耳に入らない。仮に、一流大学を出ていないために同僚よりも出世できなかった、同僚よりも実力があるのに昇進できなかった、そんなことがあったとしても、そういうことがどれだけ悔しいかは、その人がどれだけ出世願望が強いかといった要求の強さによって決まるのでは?官僚トップの事務次官の不祥事は少なくない。
あんな風に恥をさらしても、「事務次官にまで昇りつめたのだから上でき」。と彼らの親は思うのだろうか?まあ、親がどう思う、こう思うはどうでもいいこと。一流大をでてトップにまで駆け上がっても、その地位に相応しくない者はいるということだ。東大を出て長らく早大教授を勤めた加藤諦三氏は、同じような種の親を持ったこともあってか親への思いは辛らつである。
このように書いている。「"子どもの幸せを考えるからこそ"といって、受験地獄に子どもを放り込み、尻をひっぱたいている気狂いじみた親には、自分も夫も三流大卒の場合と、もう一つは自分も夫も一流大卒の親の場合がある」。自分にブランドがあるのに子どもにそれがないのが、たまらなく許せない。子どもの幸せといいながら、そうした見栄や欲望がホンネである。
子どもを親が無理強いしたり、子どもの能力を無視して願望や期待をかけすぎることで悲劇が起こることはただある。「親の夢 壊して育つ 子どもかな」という川柳は、親の悲哀を詠んでいる。親子の愛はもっとも美しいものである側面があると同様に、もっとも醜くなる要素もある。人間の中でもっとも恐ろしいことは、「醜悪な行為を美しいと思い込んでいる人間」ではないだろうか。