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若者とは何か?⑨

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「未来は若者たちのもの」などといわれた。あっちでもこっちでもいわれていた。昔も今もいわれている。世界中どこの国々でいわれている。大人たちがいえば、若者たち自身が語り合うこともある。人からそのようにいわれて、「そうだね」と納得するものもいれば、「何をいってんだ」と鼻を曲げる若者もいる。そういえば、「鼻を曲げる」という言葉を聞かなくなった。

「へそを曲げる」というのは慣用句だが、「鼻を曲げる」とは、刺激臭などを嗅いだ時の様相から、機嫌を損ねる、ムっとするという意味だ。確かに「未来は若者たちのもの」であるのはまちがいないが、青年たちがそれをどう捉え、どう感じるかは個々の問題だが、「未来は若者たちのもの」という言葉は青年たちにどんな意味をもつのだろう。まずは、自分はどう思ったか?

「未来」という言葉が、将来とか多くの日々とかと考えるなら、若いもんに未来という時間は多い。「未来」を来たる時代という風に解釈するなら、その時のためになにがしか用意と準備を整えておかねばならない。 アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードはこういった。「未来とは、今である」。普通、「今」とは現在をいう。仏語の三世は、死後の世、来世、後世をいう。

ミードのいうように未来とは今の積み重ねである。「今日の仕事を明日に延ばすな」という慣用句も同じ意味で、「今でしょ!」もある。何事においても先送りする人間で仕事のできる奴はいない。「禁酒!」の意志を紙に書いて張り出す者がいるが、思考は書くことで現実になり、脳に刺激を与えることで多くの情報が入ってくる。ブログを書く面白さもそれだろう。

今回は若者について書いているが、もし自分が自治体の長だったなら、成人式の祝辞は自分で書く。形だけの町長、市長は総務課の祐筆者の書いたものを読むだけで、横着にもほどがあり。10年勤めれば10回の言葉を書くことになるが、「未来は君たちのもの」などと型通りのことをいうのだろうか?言葉はともかく、町長・市長の言葉は心から若者を祝しているのか?

真意はともかく、若者はそうした祝福の言葉の陰に、「だから今はどんなに辛いことや嫌なことがあろうと、希望をもって我慢しよう」という声なき声を聞くこともあろう。そうした通り一遍言葉に耳を貸さない、いわゆる「鼻を曲げる」若者もである。小学生時代から校長先生の挨拶は退屈だった。小中高と様々な校長のさまざまな訓辞があったが、覚えている言葉は何一つない。

校長の訓辞などはしょせんはセレモニーでしかない。形式的な言葉ではなく、どうしてもっと心に訴える言葉をいわないのだろう?セレモニーだからである。戦時中も若者が星のたくさんある階級章をつけた軍人に同じことを言われていた。その様子を映像などで見るが、若き学徒たちの眼は爛々とし言葉を心に蓄えている。彼らはみな、国家に未来を奪われた青年たちである。

おそらく自分たちの誰もが死地にまみえるという気概が表情に溢れていたのだろう。若者たちは国難を救うために、教科書もノートもペンもとりあげられ、その代わりに銃をかつがされて戦場に送られた。なんという時代であろう。我々の平和は彼らの犠牲のうちに到来したのである。湯水のように溢れる今の若者の未来と、未来を奪われし若者の差はあまりに隔絶的である。

彼らにとって、「未来とは、死である」。ミードの「未来とは、今である」などはまったく通用しなかった。「明日こそは死」という約束が交わされていた時代の若者を不憫といわずしてなんという。どんなに生きたかったであろう若者たちのことを思えば、我々は命を大切にしなければならない。こんなことを新成人を前にしていうかも知れない。糧にするもの、聞き流すもの…

人はそれぞれだ。いかんせん、高い壇上から申す身分である。最近の若者はとみに「上から目線」を嫌うようだ。いや、我々だってそうだったかも知れん。が、「上から目線」などという言葉はなかった。同じ状況はあったとしても言葉はなかった。誰が作り出したのだろうか、「上から目線」なる言葉だが、言葉そのものに罪はない。罪なのは若者の大人たちへの不信である。

今も昔も若者の自殺はあった。若い命を絶やすのはなんとも残酷であるけれども、死に行くものは平安なのだろうか。昔の若者の自殺と今の若者の自殺の決定的な違いを見ることがある。個々の事例に違いはあるが、学校や会社でのいじめや過労自殺というのが顕著な時代に比べてほとんど皆無といえるのは、昔の若者の大人に対する命がけの不信による自殺である。

大樹の幹に『巖頭之感』を書き残し、華厳の滝に身を投じた藤村操(16)は、「若き自殺の古典」と語り伝えられている。三原山火口に身を投げた実践女学校生徒真許三枝子(23)と松本貴代子(21)を皮ぎりに、その年(1933年)だけで三原山では944人(男804人、女140人)もの自殺者がでた。東尋坊、華厳の滝、三原山以外にも、三段壁(和歌山)や足摺岬(高知)も自殺者が多い景勝地。

観光地で自殺が多発するのは、死ぬ前に美しい景色を見たくなるのか、どうせ死ぬのなら綺麗な風景の場所で死にたいと思うのか、そのあたりの心情は理解できそうでもあるが理解は不能。藤村は旧制一高哲学科の生徒だったことから、「哲学自殺」といわれた。自殺40日後に発見された彼の遺体は肉親でさえ判別困難なほど腐乱しており、夏場の水死体が景勝地を汚した。

藤村操の自殺は社会的インパクトが大きく、後追い自殺が相次ぎ、未遂を含めるとその後の4年間で160余名が華厳の滝から身を投げたとされる。「無鉄砲」とは若者の代名詞で、向こう見ずな行動をいう。鉄砲も持たずに銀行強盗をするような行為と解釈すればピッタンコだが、もとは「無点法」または、「無手法」と書いていたようで、「無鉄砲」は当て字である。

どうやら日本は自殺天国であった。今でも年間3万人弱が自殺するが、「自殺天国」とは、自殺者が天国に行くことではない。歩行者が車にはねられても、「安心しない!それが歩行者天国」ということではなかろう。キリスト教は、死後に人間の「魂」は天国や地獄に行くとされているが、そんなものは人間の空想である。天国も地獄も存在はしない。といえばこれも想像か?

仏教は仏の教えであると同時に、仏になる教えである。一般的には、「死んで仏になる(死者を仏と呼ぶことも)」というが、これは間違い。人は死後に仏になれない。なぜなら、「仏」とは、「悟った者」の意味で、「成仏」とは「悟る」ことをいう。死んでしまった人間が、何かを「悟る」にも土台は無理な話。悟りについてある仏教者は、「最高の人格の完成」という。

間違いではないが、それだけではどんなことかちーとも分からない。一体、「最高の人格」とは何なのか?ダライ・ラマのような人をいうのか?スマナサーラ長老その人なのか?仏教的最高人格者は、キリスト教やイスラム教徒にとってそうではなかろう。「所違えば品変わる」とは土産物のことではないが、宗教とは観念論的独善の世界である。自分は無神論的自由を好む。

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