純潔教育世代にとって、恋愛感情抜きの性愛はいけない事だという自己規制があった。近頃は性に緩い時代、寛容な社会のようだ。異性間の性的結合を動物的な観点からみれば、実に単純な入れポン出しポンの事実に過ぎないが、友情となると、どんなに些細な、どんな部分的な生活関係の上にでも成り立つ。綺麗にいうなら、「生きる力になり合える関係」である。
こうした考えは今の年代になって得たもので、10代・20代の若者時代にそういう視点を持つことはなかった。異性であろうと同性であろうと、友情関係の成り立つ法則に変わりはないが、恋愛は性欲を土台に、友情は何らかの生活関係を土台にしている点において理屈の上では違いがハッキリしている。現実問題として異性間に恋愛抜きの純粋な友情は果たしてあり得るのかどうか。
昨日までは友人でも愛情か性欲かはともかく、床をともにすればたちまち友人関係は立ち消える。したがって、「異性間の友情は、その者同士の友情期間においてのみ成立する」と結論する。あとは野となれ、山となれの男女関係だ。何が何でも友情を存続させたいと頑張る必要性があればの話だがとくにはなかろう。恋愛関係を終えた元恋人がこんな風にいうのを聞く。
「これからは友達同士でいよう」。これって社交辞令なのか?そんな羞恥な言葉を口にしたことは一度もない。愛が終わった相手となぜに友達でいる必要があるのか?恋が終わった相手と友達でいたいとは思わない。もはや恋人でなくなった二人が一緒に映画を見たり食事に行ったりするが性関係はナシだという。ないということは、そんな気にならないなからなのか?
それとも、友達だから抑止しているのか?後者は不自然、前者は性の対象外の相手になり下がったということ。元恋人と良好な友人関係をを築こうなど、考えたこともないゆえに経験もない。「今後は友達として…」といわれたことはあるが、望まない自分がそれにどう答えたかの記憶はない。自分には無理だが、恋愛を終えた元恋人同士が友情で結ばれるなら結構なことだ。
「青春をどう生きるか」より、「青春をどう楽しむか」が現実的である。「どう生きるか」などと、いくら考えたところで仕方なかろう。腹がすけば飯を求め、年頃になれば異性を求める。食生活によって個体を維持、性生活によってコミュニケイト、種族を保存することにもなる。生命というやつはそういう具合にできている。無理をせずに自然の摂理に沿って生きてきた。
「人間にも社会にも矛盾はある」といったが、矛盾とどう戦うかが革新であり、保守的な人間は矛盾に目を塞いでいるようだ。なぜなら、矛盾があれば矛盾し合うものの間で闘争が起こることが見えているからだろう。保守は今のままを維持しておきたいので、変化や発展を望まず、今が一番良いというのを証明するために、しきりと「調和」見せたり語ったりするようだ。
若い時の最大の関心事は友人と恋人であろう。スウェーデンの社会思想家で、教育学者でフェミニストのエレン・ケイは著書『児童の世紀』で、「教育の最大の秘訣は教育しないことにある」 といい、『恋愛と結婚』では、「恋愛のない友情はありえても、友情のない恋愛はありえない」と述べた。男の友人と寝たい気持ちは起こらぬが、異性の友人は互いが望めば床をともにする。
近親相姦ならともかくも、思いが重なるなら道徳的問題はない。その時点で純粋な友情から、発展的な愛場へと移行していくことになる。が、友情と違って、恋愛は終焉することもある。友情の終焉もないではないが、それはどちらかが相手を売ったり、偽った場合に起こる。恋愛の終焉も多岐に及ぶが、もっとも多くて分かりやすいのは、互いに飽きがきたということだ。
慣れが飽きをもたらすのは、若さゆえに仕方がないし、罪ということもない。いかに理屈を重ねようと、行いがすべてであって、飽きたものに理屈はつけられない。単に「飽きた」ということだ。好きな食べ物も毎日食べれば飽きよう、好きな楽曲とて毎日聴けば飽きてもこよう。「人間というものはいたって移り気であり、善人さえも悪人へと変化してしまう…」とある。
飽きは心理学的にも存在が定義され、「飽きないのは無理!」ということらしい。つまり、そもそも人間は飽きるようにできている、そのことに疑いの余地はない。そしてこれは生物の生存競争にとって優位点があるために組み込まれている。同じことをやり続けているよりも、どんどん次のことに取り組んでいく人のほうが、生物として生き残りやすい、ということのようだ。
人のほとんどの意見が他の人と合うことなどない。好きなもの、好きな場所、好きな季節、時間帯、みんな違う。こうした多様性はもしかすると、飽きる性質と関連があるのかもしれない。飽きの一つの原因としていえるのは、完全に内容が分かってしまったがゆえに飽きるというのがあるが、男は女にそれを見る。がゆえに、女はミステリアスな方がいいとされる。
あっぱっぱーでサービス精神よろしく、ナンでもカンでも出し惜しみしない女は、最初は喜ばれるが飽きられるのも早い。なかなか実体を現さず、少しづつ小出しにする女性がいるが、あれは性格なのか、それとも意図的にやっているのか判明不能だ。ある人が、「うちの女房は三年もネコかぶっていた」と笑わせた。どういう状況かは不明だが、嘘の自分を演じていたのだろう。
そんなことができるのか?女性は真の自分と、自分を外側から見るもうひとりの自分を創造できるという。素晴らしい才能だが、非力ゆえに備わった能力であろう。男は自分を出さないで生きては生きない。朝、顔に塗りたくって自分を隠す女…、朝、髭をそり落として素顔を露わにする男…、いわゆる比喩的な言い方だが、男と女は一日の始まりから違っている。
若さと青春は同義である。若さを横臥することこそ青春であり、一人家の中にくすぶっていては青春に機能していない。いろいろな青春があろうが、自身をよくよく分析するに、自分についても他人についてもよくわかっていない未熟な人間が、「血気にはやって」やること如くであるように思う。世間までが一緒になってそういう「若さ」を褒めたり、すかしたりであった。
残念なのは、青春がどういうものであったかは、青春を卒業をした後でなければわからないのであって、現在青春を生きる人はひたすら青春を謳歌して生きるほかない。ある時期を、それが何であるか分からずに生きているということは、つまりはその間中、一種の病気にかかって生きているということで、青春時代というのは、誰もが青春という病に生きている。