「hanshirouさん凄い。そこらの若いもんより若いんじゃないですか?」
「ええ、体力だけは自信あります。まあ、体力だけですが…」
「体前屈だけが最低点で、あとはすべて年齢離れで驚きました。」
「体が硬くて前屈は昔からダメ。あれを鍛えようって気はないですね。」
「普段、運動されてるんですか?」
「ウォーキングやってます。毎日二時間同じコースを歩いています。」
「へ~!毎日二時間ですか…?まさに超人じゃないですか。」
「超老人ですかね(笑)」
「ええ、体力だけは自信あります。まあ、体力だけですが…」
「体前屈だけが最低点で、あとはすべて年齢離れで驚きました。」
「体が硬くて前屈は昔からダメ。あれを鍛えようって気はないですね。」
「普段、運動されてるんですか?」
「ウォーキングやってます。毎日二時間同じコースを歩いています。」
「へ~!毎日二時間ですか…?まさに超人じゃないですか。」
「超老人ですかね(笑)」
先の10月8日「体育の日」、区のスポーツセンターで行われた【平成30年度「体力・運動能力」調査票】による、『新体力テスト(65歳~79歳)』の結果において調査員との会話である。「若いもんより若いじゃないですか?」とはいうものの、体力が若いというだけで若者ではないのは分かり切ったこと。体力がなかろうと若者は若者、体力があっても老人は老人である。
今はもうどんなことをしようが、どんな薬を飲もうが、祈りを捧げようが、若者になれない。若さとはかけがえのないもの、せめてその頃の体力を求めたいとの高齢者の願望だが、願望だけで身につくものではない。人は努力をしているというだろうが、本人はいたって普通に生活している。何事も日課となれば、三食と同じこと。「努力」というのはそういうものでもある。
おばさんがいかに若造りの恰好をしようが、ババはババであるが、自己満足の世界は体力増強とて同じことか。まあ、きれいなおべべを纏って健康にはならないが、体力増強は健康維持に寄与することになる。思うに若者時代、青年期というのは人間盛りの時期であった。「男ざかり」、「女ざかり」という言葉があるが、青年期に当てはまると同時に、「働きざかり」ともいう。
すべてを一つにして青年期を、「人間ざかり」といってみよう。「人間ざかり」をどう解釈するかを考えてみると、人間の生命活動がもっとも盛んなころをいう。そうした年頃は食欲もさかん、性欲もさかん、他にも種々の欲望が渦巻いている。肉体的にも精神的にも、いろんな形で欲望がはちきれんばかりに溢れているが、決して青年が無分別ということではない。
これらは生命活動の激しさの現れである。人間ざかりは欲望ざかりといえよう。欲望は無視できないし、欲望を無視することは人間の無視である。が、何もかも手放しに尊重することが人間尊重とはならない。人間の欲望には本能的なものと理性的なものがある。本能的欲望が低俗、理性的な欲望が高級ということではない。区別はすべきだが、きっぱり区別の必要もない。
人間にも社会にも矛盾はある。矛盾のない社会も屍のような社会である。かといって、若者と大人が決定的に分裂すれば、社会は平衡を保てなくなり、人間は自滅する。したがって、社会が保ちうるギリギリで限界のところでの対立は必要である。それが親と子、若者と大人を活性化させることになる。慣れ合った同士は一見平和そうだが、やはりどちらかが死んでいる。
若者が大人に反抗するそのことが世代戦争である。のっけにこう書いた。「大人はみなかつて子どもだった」。「老人もかつては若者だった」。自分が子どもだったころ、若者だったころをすっかり忘れた大人や老人たちは、自分たちが保守的であることをいいことに、若者を取り込もうとする。自分に逆らう若者を、「生意気だ」などと毛嫌いし、烙印を押す。
彼らにそれをするなといっても止められないなら、若者が戦うしかない。世代戦争はまた、アイデンティティの確保である。若者が老害どもに精神を売り渡すことだけは避けるべきだが、近頃は折り目正しい若者が目に付く。大人に魂を売り渡したかのごときである。日本が滅びるとするなら、おそらく家庭からであろう。昔からある母子心中には憤りすら覚える。
これほどに母親は子どもの所有意識が高い。外国のように、子どもは神からの贈り物という考えに立てば、母子心中などあり得ない。我が子の首を絞めて殺せる母というのは、まさに独りよがりのクレイジーと外国人はいう。子どもは施設で育つ。死にたきゃ一人で死ね!「この子を置いて死ぬことはできない」などと、よくもまあ言えたものだと思う。やはりキチガイである。
せっかく産んでもらいながら、母に命を奪われるのは残念というよりない。「命短し恋せよ乙女」という言葉が頭にある。出所を調べると、『ゴンドラの唄』の冒頭の歌詞であった。『ゴンドラの唄』は1915年(大正4年)に発表された歌謡曲で、吉井勇作詞・中山晋平作曲。 芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。
「命短し 恋せよ 乙女 紅き唇 褪せぬ間に」と歌われる。「命」とは若い時、「乙女」は純粋な心という意味の比喩表現。恋に限らず、若いうちにいろいろ楽しんでおけってな意味である。言葉どおり、「異性を求めよ」とするのも若者の特権である。ジジババが異性を求めては遺憾のいわれはないが、情熱という感度においては月とすっぽんの差があろう。
初恋もそうだが、異性慣れしていないころは、異性への想いも単純明快なものではない。異性を求める心情も、羞恥心や虚栄心と絡み合う。男の子が女の子の前で、どれだけ虚勢を張っているかは、女の子にはとうてい想像もできまい。そういうときゆえに、何気ない一言によってプライドが傷つく。ふつうの人から言われるなら何でもないが、好きな相手から言われると傷を負う。
10代のころ、20代のころ、「異性間の友情は成り立つか?」というような言い合いをした。体験したわけでないのに、観念論で言い合う。「成り立つ」、「成り立たない」の二つに分かれる。おそらく自分は前者だったろう。恋愛感情を抱かない異性は幼馴染の女性にあった。「彼女に恋愛感情を抱くべきでない」という無意識の抑止だったのかも知れないが。
友情と恋情の違いもいろいろ言い合ったが、「やる」か、「やらない」。もしくは「やりたいか」、「そういう気はないか」などの判断基準だった。端的にいうなら、恋愛は性欲を目的にし、友情は何らかの意味での生活関係を土台にしている。幼馴染の女性はまさに後者のようであった。「異性間に恋愛的色合い抜きの純粋な友情があり得るかどうか」は個別の問題である。
もっとも、友情と恋情のけじめというのは、ハッキリとはつけ難いものでもある。恋愛を別の言い方をするなら、「性的な欲求と結びついた友情」という言い方もできよう。ただし、恋愛は性欲だけではない。もしそうであるなら、異性でさえあれば誰とでも恋愛できることになる。今時こんな関係を「セフレ」というが、自分らの時代にそんな言葉はないが、事実はあったろう。