大人はみんなかつては子どもだった。老人もかつては若者だった。男女の性は年を取っても変わらないが、「女は経年で男らしくなり、男は女らしくなる」という人がうる。これはあながち嘘ではあるまい。女は閉経することで女性ホルモンの働きが弱まり、男も加齢で男性ホルモンの分泌が衰える。社会において男女差別は撤廃されるべきだが、区別と差別の混同がある。
男女差別の根本にあるのは利害であり、男女の利害が対立しあう延長線上には必ずといって差別問題が生じる。区別と差別が混同するややこしい社会で我々は生活している。確かに差別は不合理であるが、「不合理だ」と声高にいったところで、差別が解消するものでもない。不合理な差別制度をなくすためには、法整備も必要だが、個々のモラル意識が問題となろう。
道徳は教育できるが倫理教育は難しい。なぜなら道徳は人間の行動の規範であり、倫理は社会での行動の規範と関係する。道徳は規則や行動の基準を問うのに対し、倫理は規則的にそれが正しいかを問う。倫理とは行動について決められたもので、それは正しいか正しくないかを判定する。一方、道徳は「基準」を作り出し、その行いが正しいか正しくないかを決定する。
判定と決定の違いは微妙で伏在だが、例えば野球の審判のコールを判定という。その判定がビデオで確かめられ、判定違いという決定が下される。これだと分かりやすいだろう。倫理が判定であるがゆえに不倫も判定である。近年の不倫全盛時代において、不倫の箍がだんだんと弱まってきているのは間違いない。「浮気」が許されるように、「不倫」も許される緩い社会である。
「浮気は男の甲斐性」といわれた時代(今もいわれるのか?)と同じように、「不倫は妻の甲斐性」といわれる時代かも知れない。政治家も弁護士も教師も医師も芸能人もスポーツ選手も一般人もおててつないで不倫しまくりだ。なぜ、あの厳格な太川陽介が妻の不倫を許したのか?自分はこう見る。太川は亭主関白で妻に厳しかったというが、裏を返せば威厳で妻を独占していた。
独占というのは言葉を変えると執着である。妻に去られては困る、逃げられたくない、だから妻を力でコントロールしたのだろうが、それでも妻に裏切られた。つまり、太川のやり方で妻を制御できなかったのだ。真の亭主関白なら、そんな妻は叩きだすはずだが、太川のような骨なしの亭主関白男は妻に逆襲されると、「お願いだから俺を捨てないでくれ」と土下座をするタイプ。
太川の似非亭主関白は白日の下に明らかになったが、そのことを何より知っていたのは妻である。亭主関白ぶった夫にしおらしい態度を見せながら、裏では男といちゃちゃしていたという、これは女の頭の良さである。別の言葉で「狡さ」ともいうが、狡さは賢さである。「知らぬは亭主ばかりなり」という言葉は古くからあるが、貞淑な女に騙されるのが男ということだ。
太川のようなタイプは、無理をせずに尻に敷かれていいこしてるのが無難である。性格はとっくに妻に見透かされているわけだから…。不倫は道徳的に許されないのか?これは全くの愚問であって、道徳的にゆるされないから不倫という。それなら、独身女性と妻子持ち男(もしくはその逆や既婚者同士)の恋愛をなぜ不倫というのか?これについても明快な答えは出せる。
そういうことが不道徳かつ不倫にあたらないということになると、結婚制度は意味を失ってしまい、一夫一婦婚を土台にした日本の社会は秩序を失い、崩壊の危機にされされる。したがって、不倫行為者は少数派の楽しみとし、多くの人は夫婦の貞操を守り合うのが望ましい。そのことで、不倫行為者に対し、非難や罵声を浴びせることは許してあげなければならない。
道徳なんてのは神が作ったものではなく、共同体が自己維持のために作り上げたもの。「既婚男は独身女性を手籠めにしてはいけませんよ」といっているにも関わらず、独身女性が率先して手籠めにされたいのなら、男も色気を出すだろう。誰でも嫁とは違う、それも若い女性のパンツを脱がしたいのはスケベ心というより、ごく当たり前のもっともな心情である。
女性の方からけしかけられ、「え、いいの?」と念を押す男に罪はなかろう。妻は夫を責めるより、相手の女のところに押しかけるべきだろうが、それをさせてはならないのが戴いた男の気概であり、彼女の気持ちに応えて妻の殴り込みを死守すべきなのに、女房怖さの薄情男もいる。こんな男に差し出した女も哀れというしかない。不倫もいいが、男を選べといいたいくなる。
妻にケツを抑えられた夫と不倫関係になったはいいが、そういう男が妻に嗅ぎ付けられたとき、妻に頭が上がらぬ男は不倫相手の女性を庇うことすらできない。なにげに始めたはいいが、慰謝料の問題も発生したりと、不倫の代償は高くつくこともある。不倫はいかにして可能か?その答えは、絶対にバレないようにすれば許されよう。この点については男より女が勝っている。
相手のすべてに魅かれて、行きつくところまで行ってみたい。それは自然な気持ちであり、自分の周囲や現状に目をつぶった方が幸福なのはわかっている。若者は自分のなかにある何かに惹かれて荒野をさまよいた衝動に駆りたてられる。幸福でなくてもいい、安定を拒否して、どこか見知らぬ土地の見知らぬ街や自然の中に身をゆだねたい。「青年は荒野をめざす…」
家庭の幸福にどっぷりつかった者たちに求めるものはない。若者とは、若さとはそういうものではないか。何かわからないが、求める何かがあり、それを掴む情熱は苦しみすら克服しかねないエゴイスティックなもの。そんな若者時代を思い出す。世の中にはどうしても避けられないものがいくつかあるが、その中の一つに世代との戦いがある。身近な例でいえば親との戦いだ。
親心というのは激しいもののようだ。どのような激しさかといえば、子どもに対する所有欲である。取り込もうとする親、離れようとする子、身近な世代間戦争は家庭の中にある。戦いに挑む若者は幸せなどに浸っている場合ではない。もし、全ての若者が、「自分は幸せです」という社会とは何と不幸なじだいであろうか。若者と大人は別の生き物、別の存在である。
にもかかわらず、若者は大人と共存しなければならない。社会というのはそれでなければ維持できない。大人や老人たちはいかにも保守的である。守るものがあるからだろう。大人はそれでいいが、若者は保守的であってはならない。大人も若者みんなが保守的になり、内部に矛盾を含まなくなってしまったということは、いずれかが死んでしまっていることになる。