老若男女は関係ない。
貴賤富裕も関係ない。
貴賤富裕も関係ない。
人間の価値を決めるのに関係あるはただ一つ。気力ではないのか?その人が成功したか、成功しなかったか、そんなことは何の関係もない。勝敗というのは時の運も大きく関係する。だから、何よりも大切なのは、その人が最後まで気力を持ちつづけ、自らの可能性に賭けたか挑みつづけたかで、名声を得た得ないはどうでもよいこと。正直が災いして無名で終わる人もいる。
正義感が強いことで成功できなかった人もいようし、成功した人の中には違法すれすれのあくどいことを行った人もいる。だから、そんなことはどうでもいいこと。成功したというだけで人を正しく評価はできない。だから、どうでもいいことだ。「お金持ちだからといって人を評価すべきでない。その人がそのお金をどういう風に使うか見届けるまでは…」という。
欧米のセレブにチャリティーはボランティアに熱心である。限られた人生なら、人のため社会のために生きるのも選択肢の1つ。真のお金持ちとはお金を蓄えることの興味より、いかに吐き出すかを考えている。預金通帳の数字に躍起になるのは小金持ちのこと。山口県周防大島町で行方不明となっていた2歳男児を発見し、大きな注目を集めたスーパーボランティアの尾畠春夫さん。
酒もたしなまず、預金もゼロという彼は、「体が動ける間はこれを続けたい」という。「妻は5年前に用事があって出て行ったきり帰ってこない。でも家の鍵をもっているのでいつでも帰ってこれる」と面白い言い回しだが、5年前とは2013年。東日本大震災は2011年で、尾畠さんは、被災地の南三陸町に1年半以上いたことになる。ボランティアに熱中するあまり、妻は買い物に出たっきりか?
誰もが尾畠さんを善い人と思っても、良くないと思う人もいる。すべての人に愛される人間なんかいるはずがない。妻や子どもたちが主人や父を立派と思おうと思うまいと、彼は正しいことをしたいのだ。「正しい行いをして嫌われるなら仕方ない」ということだろう。この場合の善悪良否は尾畠さん個人の問題だ。他人の善悪にはなまじ口出しできるものではなかろう。
何事に全力を尽くすことで悪い結果が出ることはない。人間には様々価値があり、人によっての価値観があり、その元になる価値基準がある。大きな、いいことの価値観もあれば、小さく、しょぼい価値観もある。何が大きくて何が小さい。何が良くて何がしょぼい。それが自分で見えないひと、分からぬ人がいる。だからクラーク博士は、「少年よ大志を抱け」といった。
「大事の小事」、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのは中国の故事。人生は死ぬまで分からぬものだから、とりあえず大志を抱いておれば間違いはなかろう。細々というより、分かりやすい二文字で表現した。世の中には小さい男がいる。低身長ではなくケツの穴の小ささ。小さいケツの穴から大きなウンコは出ない。無理をするとキレ痔になろう。
小さい奴は小さく生きるが分相応というもの。大体において、「大きい・小さい」は心意気も含めた男向けの言葉で、大塩平八郎の身長は217cmあった。弓削の道鏡は正座をすれば足が三本に見えた。名は伏せるがあるプロ野球選手は、浴槽に入るとき、「チャポン!」が三回聞こえたという。余談はともかく、人が何かに夢中になるのがその人の生き甲斐なら、他人の批判は無用だ。
夫のゴルフ三昧に嫌味をいう妻に、「付き合いだから…」といっても耳には入らない。嫌なものは嫌なのだ。ボランティアに明け暮れる尾畠さんは、我々の尺度からすれば革命的な人である。革命的に生きるということは、それで名声や評価を得たところで執着することもない。名声を得られなかったといってもどうということもない。富んでも奢らず貧に文句もでてはこない。
お金がなくともお金持ちを羨んだりもない。革命者とは最初の一人である。誰がやるかが問題になるなら最初の一人になればいい。恋愛が勉強の邪魔という人間がいる。恋愛はむしろ勉強のプラスになる人間もいる。ラジオや音楽を聴きながらの勉強がはかどる人間も、集中できないと避ける人間、これは個々の人間の心の問題だから、奨励も禁止もすべきではない。
親がこれをやるなどどうかしてる。すべてを人為で動かそうとすると心が歪む。何事も自然な状態に勝るものなし。自然にしていて、好きな人ができたときには、それを積極的に自らの生活に組み入れればいい。恋人の存在は自分の生活に光を与え、それによって生活全体が明るくなる。そういう姿勢の人間は、恋が勉強にマイナスとなっても、長い人生において必ずプラスになろう。
すべてを犠牲にして一つことに邁進する善悪は決められない。「深く狭く」か、「広く浅く」か、学者は前者であるべきだが、自分は後者を好む。前者を「学者バカ」といい、後者を「器用貧乏」などという。人間の価値を決めるのに老若男女は関係ないといった。が、男女が無理して競う意味はない。大人と若者が競うことの意味もない。
「男が男で、女が女だった時代」といえようか。日本という国は卑弥呼もそうで、天照大神(あまてらすおおみかみ)もそうであるように、女性が支配していた。男は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)のように、暴れまわるだけで何もできない。林道義の『父性の復権』が評判になった。評判になっただけで、復権にはなっていない。林は、父権なんてもともとなかったという。
父権というのは、女子供を守らなきゃ死ぬんだという思うから自然発生した原理であるという。日本の社会構造というのは、女が男を奮起させる、しゃんとさせるのであって、ヨーロッパの一神教男性原理とは異質である。女にとって子どもとは、自分の肉体の一部として生まれるゆえにか、「我が子」を実感できるが、男にとって子どもとは、まるでフィクションである。
「似てるから親子」てな程度のものでしかない。だからいいのであって、だから子供を客観的に眺められる。ただし、大事なことは一つ。「子どもは大人を映す鏡である」という認識は絶やすことはできない。「日本人はなぜかくも醜くなったのか」。諸悪の根源が先の大戦の敗北なのか…。敗戦を境に男は豹変したのか。徳川幕府の太平の世で、武士が豹変したように…。
男が男であった時代に女は女であった。人生論の最終課題は、「自由」の問題であり、男らしさ・女らしさのなか、競争社会といわれるなかにも自由はある。それを見つけられないがゆえに、誤った平等主義や競争否定論が生まれる。男女の能力には向き・不向きがあり、それを自覚する者は偏った平等主義には組しない。真の平等とは、「適」が認知されなければならない。