自分たちが若者であったころ、「若者って何?」など考えなかった。同じように老人になって、「老人って何?」とは考えないようにだ。寿命いくばくもない老人は、いつ襲ってくる脳卒中や心臓病など健康管理に気を使っっているが、命を長引かせたいからそのようにするというより、自分の身体に何がよく、何がよくないということが判断・実行できるようになる。
若者が自分の寿命について考えることは普通はないだろう。湯水のように溢れ、あり余る命が、死うを遠き彼方に押しやっている。『若者たち』というフォークソングがあった。♪きみの行く道は果てしなく遠い、なのになぜ…と歌われるが、行く道は逝く道ともいえるのか?そうではなく、長い人生の道のりをゴール求めて歯を食いしばって生きて行こうという歌だ。
人生のゴールが何かを考えたことはないが、以前、「人生はあがりのない双六」と聞いて納得した。あがりは終点、それが死なのだと。金ぴかの小学一年生の記憶はないが、中学も高校という短いスパンで、それぞれにあがり(区切り)はある。大学は学童期といわず、大人として社会に出るための準備段階であり、「そのための教養や知識を身に付ける」というのが本来の目的だが。
実際は、「単に学歴を得るため、その方が人生に有利」と考える者が多い。日本の企業は新人社員募集要項に、「大卒であれば、学部・専攻は問わない!」などの記載が多い。おそらくこれは、「入社後の研修で指導すればいい!」との考えだろうが、IT系のシステムベンダーであってもである。アメリカでも学歴は重要だが、上記のような募集要項はまずありえない。
その意味で、学歴社会の質が違う。つまり、日本のように学歴目的で大学に行く、大学を出ていれば"食いっぱぐれがない"などの観点はない。あくまで大学は自分の将来の指針と専門的な知識の習得が目的となる。したがって、「新人研修で一から鍛えればいい」などの悠長な考えもなく、新卒であろうと即戦力を求められるので、日本の専門学校に近い感覚といって良い。
例えばプログラマーの募集には、情報工学・電子工学の学位が必須とされる。さらに日本のように必ずしも大学を4年で卒業しなければならない、ということが無いので、早い人はどんどん単位を取って3~3年半で卒業する人もいれば、ちょこちょこ単位を取って4年以上かけて卒業する人もいる。大学在籍中に長期の海外旅行で見分を広げる学生も少なくない。
今しておかねばと、これも社会に出る準備である。仕事でアメリカに6か月在住したが、カルチャーショックの連続だった。「半年ほどヨーロッパをさまよい歩いたのよ」とあっけらかんにいうバックパッカーがいた。彼女は当時20歳の女性であった。「そんなことをよく親が許したね」というと、彼女の頭の上にマンガでいう「?」が三つくらい見えるような顔でいった。
「よいことをするのに、どうして親の許しが必要なの?」。この一言で自分は適切な応答ができなかった。「反対されたけどね。でも説得した」、「反対はなかったけどいろいろ注意をいってたわ」などを予測したけど、まるで違った。"親の許諾"という観点の無さに大いなるカルチャーショックを受けた。もちろん、全ての親が一つ返事で、「いいよ」だとは思わない。
が、許諾を得るという点において、親子の大人の関係を感じた。日本で親が旅行に行くのに子どもの許諾をえることはまずない。だから、子どもも同じようでいいとはならない。いろいろ親子関係について話す中で、「親は私の人生に介入しない」といい、「親は私とは関係ない」という言葉にも驚かされた。親子関係を否定するとか、肯定するとか以前の考えがそこにあった。
例えば日本の女子大生がそれほど厳格な家庭環境であったようでもないのにこんな風にいう。「これといったハッキリとした原因があるわけではないのに、最近両親が煩わしいんです。家に入る時でも中学・高校の時ほど楽しくもなく、勉強の能率もあがりません。いっそ、家から出て一人暮らしをしたい気持ちにかられます」。これを聞いて即座に、「彼女は親絶ちをすべき」と感じた。
親が子どもを手元に置いておきたいのは100%親の都合である。いなくなると寂しいし、いると安心する。これって、子どもにとっていいことなのか?なぜ、日本の親は子どもより自分の都合を優先するのか?「(娘の)一人暮らしは絶対に認めない」という母親に理由を聞いたことがある。返った答えに唖然とした。「それは娘だからです」、「男の子ならいいわけ?」と返す。
「…多分、ダメというでしょうね」。しょぼい理由を聞いて、これ以上問わなかった。「親がダメなものはダメ」というのが分かったからだ。確かに児童期の子どもにとって、家庭は居心地のいいものだ。親は自分を庇ってくれるし、養ってもくれる。ところが、思春期になり、自我が芽生えてくると子どもにとっては親密な親子関係が、煩わしく感じられるようになる。
「それはなぜか?」を考えない親が問題なのだ。親子が親密で仲が良いことを肯定するばかりか、自慢する親もいる。「そんなこと自慢できることか?」というのが自分の問題意識であり、これをそういう親にぶつけることはしない。なぜって、自慢できることを他人から批判されたくないだろうし、批判について考えることもない。そういう親は少し話せば分かる。
自分と子どもの関係だけがすべてという親は、視野の狭い人間というだけではない病理を感じる。一歩外にでれば子どもは社会のものという意識がまるでない。だから、常時目に入る場所に置いておきたいのだ。子どもにも自己の内面的な生活がある。それに目覚めてくると、家庭によって拘束されることを望まない。そうした自然な親離れをなぜに許さないのか?
自分のことしか考えない親だからである。例外もないわけではないが、「子どもは社会のもの」、「友達のもの」、「恋人のもの」、「社会の一員として歯車如きもの」と考えるのが父親ではないか。子どもの自然欲求に従い、その時期に社会的にも独立すべきである。「一人暮らしはさせません」という親に閉口したのは、この親は子どものために子育てをしていない。
若者とは揺り籠や鳥籠から外に向かってはばたくときである。家庭における親の過保護は必ず若者をダメにする。若者は家庭から解放されることで一人自活するすべを身に付け学んでいく。それを許さない親はニートを作る可能性もある。ニートは子どもがなりたくてなるのではなく、親が作るものではないか?そんな気がする。自分の全力を仕事に尽くすべきである。