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若者とは何か?②

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若い時にたくさん見たり聞いたりしたもの、感じたもの、読んだ本などが人間の土台になる。いろんなものを見たし、いろんな種類の人間も見た。それで、「あんな大人には絶対になりたくない」という人間はいた。「あんな大人になりたい」という人間は小説などの主人公にいたが、現実には記憶にない。あえていえば、前者が母で後者が父という面白い対比が挙がる。

親も大人には違いないが、子どもにとって親は親である。大人というと他人を指すのではないか?たしかに、「なりたくない大人」の要素を母はたくさんもっていたが、やはり、「あんな親には絶対にならん」だった。多少なり勉強ができたからか、通知表を近所に見せに回るような親だった。近所のおばさんはこぞって、「〇〇ちゃん、偉いね、賢いね」と自分に言ってくる。

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同じことをおじさんにいわれたことがないのはなぜだろう。男は女とちがって井戸端会議を行っていないこともあるのだろうか。身近な問題について、ああでもない、こうでもないの話題は男には向かない。それをスーパーの通路でやるおばさんがいるが、邪魔でしょうがない。店員が一言、「通路で立ち話は止めましょう」といえばいい。あれは間違いなく通行妨害である。

「通行の邪魔」という神経回路・思考回路がないのだろう。そのことだけに夢中になって周囲が見えない。これがおばさんの特質だ。思うに親というのは、「見本になる親」、「反面教師としての親」でいえば、絶対に後者が勝るというのが体験的な思いである。「あんな人間になろう」というのと、「あんな人間にだけはなりたくない」では、後者の方が一段と努力をする。

「あんな人間になりたい」から一生懸命に勉強したという話は小説に出てくる。「あんな人間には絶対にならない」がストーリーの主軸の物語はないのではないか?確かに、『児童文学全集』にふさわしい内容は前者である。しかし、物語の登場人物には、「善い人」と「悪い人」が対比で描かれている。「花咲かじいさん」や、「舌きりすずめ」などは好例だ。

猿を悪く描いた、「さるかに合戦」もある。スズメの舌を切るのは子どもごころに怖い感じがした。「さるかに合戦」は、うすとくりとハチが主人公という発想がユニークだった。子どもの頃にこういう物を読むと、猿は悪い動物、カニは好人物のイメージがつくが、本から自然に刷り込みがなされるのだろう。女の井戸端会議に対して男は込み入った議論を好むところがある。

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『朝まで生テレビ』を好んで見たが、「男の人ってなんであんなくだらないことやるの?」と女性にいわれたときは正直驚いた。「女性はそんな見方をするものか」である。そういえば女性の井戸端会議を批判する男はいる。あれは女の習性と思うからか批判はないが、双方の言葉を聞けばやはり異性の理解は至難のようだ。若者時代にはくだらない議論をした思い出はある。

「くだらない、くだらない」といいつつ、それでも議論を止めない。女性が井戸端会議の中で、「こういう話ってくだらないよね」などというのだろうか?まあ、いってもいわなくてもいいが、若者はバカバカしいことに熱中する。事実としての、「どちらが正しいか!」などの答えを求めて夜を徹し、延々と議論をしたのが懐かしい。男の議論好きはおそらくこういうこと。

「説得という行為の中に潜む自己の存在確認」、「説得という行為による力の確信」。男がそういう生き物であろう事は男だからよく分かる。どちらも自我に関連する。さまざまな価値意識が混在する世の中で、女性の価値意識というのは男より少ない気がする。女性は、「事実そのもの」を理解するが、男は、「その事実がどういう意味を持っているか」を知りたい、探りたい。

男の悩みでよく聞かされたのは、「どうしても自分の殻を打ち破れない」という言葉で、これが何とも不思議であった。昆虫はその成長過程で殻から自然に脱皮をするが、人間はそうもいかないらしい。自分の殻を打ち破るのには勇気がいるという。思い起こせば、「自分の殻を打ち破りたい」に苦闘する若者は、どこか真面目で、親に従順ないい子だったように思われる。

イメージ 3親の影響なのか、内部に巣くう保守性を打破できないでそれで若者か?ビートルズが世界の若者に人気があったのは、ある種の殻を破ったからだ。殻を破る、規制を壊す、権威に屈さない、そういうものに憧れるなら、自ずとそういう生き方を模索すると思うが、憧れないのか、憧れても殻が破れないのか?一体、それほどの何が障害なのかよくわからない。殻は破る方が面白い。

若者にとって、「平凡」は偽善である。若者は革新に満ちているはずだが、現状を打破したい気持ちがあるにはあっても、やらいのか、できないのか、いずれにしても慣れから脱却をしない奴である。「満足ではないが殻を破れない以上、現状に甘んじるしかない」というところに落ち着く。勇気とは冒険心、冒険とは勇気、冒険心がない、勇気がないでは殻を破れない。

就寝時には寝間着姿で足を縛って寝るのを実践していた子がいた。臆病という感じはなかったが、自分と付き合うことでとんでもない冒険をさせられる羽目になった彼女だった。ある日、日比谷野外音楽堂の塀を超えてタダ見をする提案に彼女は頷く。高い塀の下に踏み台に代わるものを置き、彼女を先に行かせようとしたら、「見えるから先に行って」というので先行した。

塀の上から跳び降りるときも、「あっち向いてて」といい、彼女は「どさっ!」飛び降りた。足の骨でも折ったら大変なことになっていた。「あっち向いてて」の言葉がいまだに脳裏にしっかりと残っている。自分がやる無謀なことでも、「嫌よ」という言葉を一切吐かず、くらいつき従うのが昔の女性だったかも知れない。そうした世代観というものは確実にあった。

今の時代は女が先に歩いて男が三歩下がって歩いている。なぜに女が男を主導する時代になったのか?要因もあったと思われるが、人はその時代を生きる。社会学者はさまざまな指摘をするが、当時は男が舵なら女は船、舵の方向に船も進んでいくのが当たり前だった時代、男が男として機能していたろう。昔を懐かしんでいるのではない。自分たちは斯くの如く生きてきた。

「平凡は偽善」といったのは、結局、人間という生き物は慣れたところで慣れたように暮らしていき、情熱とやらはその慣れた生活を壊さない範囲でしか持ち得ない。確かに、「類は友を呼ぶ」といい、革命の戦士たちは同じ類で集まり、臆病者は同じ類の集団を拠り所にする。したがって、人間の集団は別々になっていようとする傾向があり、これを「群居本能」という。

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