◎若者は無知である
「無知の知」とはソクラテスの言葉。自分が無知であることを知っているという点において、それを知らぬ他人より優れているということだ。人は誰も他人の無知を指摘はできるが、自身の無知には鈍感のようだ。「孫氏の兵法」にも言われる、"己を知る"が如何に大切であるかである。では無知を自覚することでの効用というのか、どのような利点があるのだろうか?
ある奴がこんな風にいった。「無知の知が何の役に立つんだ?」。自分がどう答えたかの記憶はないが、今もし問われたらこんな風にいうかも知れない。「それは無知の知を自覚しなければ分からないだろう。役に立つからそうするというものじゃないからな」。言い方というのは、その日その時の気分でどのようにでも変わる。明日は違う言い方をするかも知れない。
「〇〇が何の役に立つのか?」という言い方を決まってする奴がいる。口癖というより、根っからの功利主義なのだろう。自分に得にならないことはやろうとしない人間はいる。功利主義は自分の利益だけを追求することを善とする学説に思われがちだが、それは「自己中」であって、功利主義というのは、「最大多数の最大幸福」を基本原理とする倫理思想である。
分かりやすくいえば、「自分の最善の利益になることは、社会全体にとっても利益になり、逆もまた然りということ。行為や制度が社会的に望ましいとされるのは、 その結果として生じる効用(功利、有用性)によって決定されるとする考え方である。自己中とはまるで正反対なのに、自分の利益を優先させる人間を指して、「あいつは功利主義だ」などという言い方をする。
哲学用語は時に間違って使用されることがある。功利主義は日本語感的に上記のように誤解を受けるので、帰結主義(結果主義)、公益主義というべきかも知れない。若者を経験した記憶からいえば、若者は多分に快楽主義かも知れない。幸福主義ともいうが、快楽というのは行為に結果として付随するもので、それ自体を目的として生きると、むしろ快楽を得るのは難しくなる。
これは「快楽主義のパラドクス」ともいわれる批判で、様々なスポーツを例にとっていうと、もっとも快い瞬間というのは、脇目もふらず一心不乱に打ち込んでいる時であり、快楽を気にしすぎていてはスポーツに熱中できないだろうし、むしろ快楽を目指していない時のほうが多くの快楽を得ることが出来るだろう。 それらから若者は多くの誤解と無知に生きている。
幸福を得たいがためにむしろ幸福を遠ざける。安定と幸福を求める者は、人生の意味に背をむけることになろう。喜びを通じて人間になるよりは、むしろ悲劇を通じ、体験を重ねることで人間になる。ゆえにか、幸福以外に目もくれない人間は、人間的な至福感から遠ざかろう。五木寛之はその著作『青年は荒野をめざす』の中で、目の前の幸福に背を向ける若者を描いている。
幸福になることによって人間はダメになる。幸福になることで、人間は人間の求め得る大きなものを失うということはある。こういう言葉は作品の中に頻繁に表れる。自分は同著は読んだが、五木の大作『青春の門』は読まなかった。あれは大河小説であって、なぜに週刊現代という雑誌に連載されたのだろう。映画やテレビドラマもされたがどちらも観ていない。
若者が無知であるのは、例外を問わず若者を終えてから知ることになる。自分の経験でいうなら、若者は、「無知の知者」ではなかった。若者は根拠のない変な自信に満ちていた。それを無鉄砲というかもしれないが、一切を含めて愚かであったという回想だ。あの頃の幸福とは何だったのだろい。ドストエフスキーは、「かぐわしき苦悩の香り」のようなことを言っている。
五木が描こうとしたものは、幸福という視点を離れて人間の生の実在感を求める若者。幸福が人間の求める最終目的でないという考え方は自分も同じ。「幸福とは何か?」についていろいろ書いたが、その日、その日が喜びに満たされた人生を幸福というなら、そうした主観というのは同じ生活条件にあっても、幸福に感じない人もいる。
となると、幸福はその人だけの主観であるのか?自分の望みが満たされていく過程において、我々は幸福だという。それらはつまり、「感じ方、考え方」の問題だけのものなのか?そんなことはない。確かに幸福は感じるものであるが、望みが満たされるという「事実」がないなら、感じたくとも感じようがない。したがって、幸福は感じ方よりも事実の問題が優先されるだろう。
◎若者は貧乏である
貧乏と貧困は似ているが同じ言葉ではないはずだ。例えば、「今月は出費が多くて給料日まで貧乏生活だわ」。「最近、貧困家庭が増えている」とか、「あいつは心までが貧困だ」などの言い方をする。「心が貧乏だ」とはいわない。貧乏は貧しく耐乏か?貧困は貧しく困窮か?耐乏なら耐えればよいが、困窮は脱しなければならない。よって、心が困窮は脱すべきもの。
貧乏は一時的なもの。貧困はある程度継続的な状態。やはり、貧困は脱しなければならない。「若者は貧乏」といったが、決して貧困ではなかった。自分のことをいうのが分かりやすい、よって自分の若者時代を述べている。貧困はつらいだろうが、貧乏は苦にはならなかった。欲しいものが買えないのは当たり前であって、若者=貧乏は、肯定すべきものだった。
若者が金銭的に満たされているなら、金銭感覚が麻痺するのではないか?毎日ステーキやうな重食っててどうなるだるう?若者には吉野家や立ち食いそば屋が似合う。似合うだけでなく御馳走三昧は将来のためにとっておくべきで、朝晩カップヌードルだけでも生きていける。食事はステータスに合わせるもので、フランス料理など食ってるようでは若者の堕落である。
考えてみれば分かろう。若者が何によって存在しているかを…。美味いものを食ったり、裕福な暮らしをするために若者が存在しているか?地位やお金が若者の存在に必要か?ある人にこう言われたことがある。「若いのに金と暇がある奴にロクなのはいない」。ロクな奴かどうかはさておき、金も暇もなかった。自慢できるものがあるなら、若さと滾る情熱だったろう。
だからか、お金がないのはむしろ誇りだった。時間があるのだから稼げばいいのだから…。気取ってる場合じゃない。そんなものは捨てて活動する以外に生きる道はない。情熱は質的なものであって、欲は人間の一切を金銭で計算したり、権力で算段する。そんなものと比較することがどうかしている。人間を金に交換して体を売り渡す女子高生などいなかった。
「ウチの身体をウチが自由にして何が悪いわけ?」いうのだろう。悪いとは言わない。お前の身体も性器も好きに使う自由はある。みんなあんたのもの。ただ、上記したようなことから言えば、人間は人間を金で売り渡すことで、精神までもお金に換算し、お金と交換可能なものにしてしまっている。職業ならともかく、援助交際などと御託を並べる哀れな少女と映ってしまう。