「強いる」というのが好きでない。よって強いることはまずしない。何かを継続的に行う場合においても、自らを強いることがないように工夫をする。自分なりの工夫とは楽しむことが多い。「強いる」では続かないのが分かっているのだろう。そのことは全般的な自身の生き方(人生)でもある。自分に限らず、他人を強いるのも他人からから強いられるのも好きではない。
そうはいっても社会にはルールがある以上、他人から強いられることがないことはいいきれない。学校や勤め先には規則があって、教師や上司から命令を強いられたことを忘れたわけではない。親からもいろいろ強いられたが、それが嫌だったということ。何かにつけて文句たらたら言いながら強いられたことをやる人間がいるが、そういう人間も無様で好きではなかった。
社会の一員として多くの規則や命令に囲まれて生きるのが人間だ。せねばならぬことは、文句をいわずやるが、それを不自由な存在とは思わない。自分が言いたいのは、人間関係上の無用な強制であって公的なことではない。「付き合い」と称する暗黙の強制であるのは誰もが感じている。「付き合いを絶対に断らない人」が、「いい人」として称賛されるが、実は本人は辛い。
人から嫌われても幸せな人はいる。人から「いい人」と称賛されても不幸な人はいる。これが社会の根本的な面白さであろう。人から嫌われたくないから、ついついいい人を演じる人を奉仕者と自分はみる。人から好かれること、嫌われることが、その人の心にどう影響するかは、個々で違う。嫌われることで「自分はダメ」と思う人間もうれば、そんな風に感じない者もいる。
後者の自分は、「しょうがないね。人間には好き嫌いも合う合わないもある」と考える。これが当たり前で、無理に繕ったり無理をしたりする必要を感じない。自然に自分を出して生きて好かれないならしょーがあるめ~。長いことこれでやってきた。好かれることも多かったから、自分に無理をすることも、偽る必要も感じない。友達の多さなんか自慢することでもない。
周囲に100人いて、10人に好意を持たれれば十分だ。5人でもいい、極端な話、一人でも…。その方が無用な付き合いをしなくて済む。ネットと現実は違うようで、案外似ている。ネットで多くの友達を作ったはいいが、自分の都合でブログの閉鎖挨拶を見ると、謝罪・謝罪・謝罪である。あれは本当に相手に悪いと思っているんだろう。相手はそこまで思ってないのではないか?
なのにあれほど平謝りされると滑稽に感じるのでは?部外者でも滑稽に思う。友達を作りたかったのも自分なら、捨てる(切る)のも自分である。「自分」のところに「自由」の言葉を入れてみるといい。あれを、「良心の呵責」というのだろう。自分は多くの人に好かれている、支持されていると思うから呵責なのだ。結局のところ、人間の良心とは何を成し得るかである。
「良心」とは、自分の存在への一つの確かめに思える。「澄みきった良心ほどやわらかな枕はない」というが、言葉の意味は、「皆と同じようにしていることは安らかであり、子どものころから教えられたとおりにしているのが、人間的で楽ですよ」ということ。良心とは普遍的・永久的なものではなく、単に学習されたものに過ぎないというのを本質的に理解するとどうなる?
おそらく、社会的に「良心的」といわれている行為だけをやって、得意になることはないだろう。それが羞恥に思えるからだ。何かの行動をすることは、「非良心的」であることは度々ある。考えて考えて考え抜き、悩みに悩み抜き、自分の前には行動しかないと分かった時、人は行動すべきである。たとえそれが非良心的なものであったとしても、やはり自分を優先する。
人気ブロガーがブログを止めるとき、申し訳ない気持ちになるのが良心だろう。閉鎖(行動)を選んだ以上、そんなにいい子ぶらなくて、人気の飲食店の閉店挨拶に張り出し程度でいいと思うし、そんなにおもねる必要もないが、これも人の性格だ。しつこい勧誘電話に自分は無言でガチャンする。すぐに、「なんで切るんですか?」と再コールしてくるバカがたまにいる。
アタマに来てるんだろうが自分はいう。「勝手にかけてきたんだろ?勝手に切ってどこが悪い?」。これで相手もガチャン。何も言えないからだろう。うっとうしい勧誘電話に良心なんか見せる必要ない。たとえ好まざる相手であろうと、行動することは非良心的である見本のような事象。我々は決断しなければつまらぬ時間に流されていく。だから、決断は大事。
人が良心的に行動していたら、遂に人間は何の行動もできなくなる。行動するということは、どこかで誰かの意に背くことになる。である以上、そこまで良心的に考えないことだ。憲法19条の条文は、「思想及び良心の自由」を侵してはならない」としている。ここにいう「良心」とは、カントのいう道徳哲学における「良心」という概念とは別のももであろう。
良心の自由と人間の心理構造においては、様々な裁判判例がある。人間の感覚というのがいい加減であるのは、外国人の捕鯨禁止やイルカの保護に感じられた。彼らは生の肉を平気で食べるくせに、日本人漁師が摂った魚をその場で食べるのをゾッとするという。そして、日本人は残酷だという。人間に自由への欲求はあっても、どこまで自由になり切れるのかと定義した。
遂げられぬ恋に苦しんだ友人の心は発狂寸前だった。平静を装っていた不自然さは手に取るようであった。アカの他人を捨てるなど、捨てる側には何でもない。親を捨てる女性の手紙はこう書かれていた。「私は自由になりたい。それがどんなに忘恩の行為であり、非難されるべきものであっても、私はすべてを無視して自由になりたい。父からも母からも、そして自分からも…」
この心情は痛いほど理解できる。これも行動が非良心的である事例だ。あらゆるものから自由になり、最終的には自分からも自分を自由にしたい。憎み、傷つき、苦しみ、他人を意識し、さまざまな欲望を持つ自分からも解放されたい。誰でもそんな風に思うのではなかろうか。自由とは環境である。人間は植物とちがって、自然的環境の他に社会的環境がある。
これらの環境にがんじがらめにされて生きている。そうした環境にがんじがらめにされない方法、それを自由という。自由は目的ではなく生きるための手段である。だから、自由を得ると同時に自己も獲得せねばならない。さらに、自由とは何か?周り回って、「希望」かも知れない。「希望」とは何か?自らを信じること。好きだった『希望』という曲の歌詞が流れる。
かつての恋人を探しに旅を継いでいく女を歌ったもの。あり得ない設定のようだが、男の描く女の理想を歌詞にするとこうなる。あなたの名を「希望」とすれば、永遠に旅はつづけられるという。この女は不幸に見えるが本人はこれがが幸せなのだろう。努力とか、辛抱とか、継続、鍛錬、いろいろな要素や言葉はあるが、全てをくくるものが希望なのかと。