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自由とは何か?⑩

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昨日書いた友人の失恋は、仲のよかった奴だけに自分も辛かった。明らかに人を故意に傷つけようとする女は、何の恨みがあるわけないのに、人をもてあそんで楽しんでいたのだろう。基本的に人がどのように生きようと、ふるまおうと、誰にも干渉されない自由はある。ヒドイ女といったが、人の自由にもヒドイ行為はある。彼女に欠けていたものは良心ではないか。

良心がなにかを考えたことがあるか?「ない!」。ならば今考えてみる。良心とは単純に良い心と書くが、良心は必要か必要でないかを問えば、良心の意味を正確に分からぬ者でさえ、「良心は必要」というだろう。では、なぜ良心が必要かを考えると、社会では多くの人たちと接するからと答えたい。これはおそらく正しい。もし、無人島で一人生活するなら良心はいらない。

つまり良心は社会生活と関係があるようだ。だんだんと良心の意味も分かってきたし、良心が社会の産物であるのも分かってきた。どうやら良心とは作為的なものではなく本能であるように思う。なぜそう思うのか?どうやら良心とは、「社会の意志に従おうとする本能的な行為」とまとめたくなった。社会の意志とはなにか?神の意志と同じように声に聴くことのできない。

「公共の福祉」という言葉があるが、それこそが社会の意志、社会の要請といえそうだ。さらには社会秩序の維持とか、いろいろな考えがあろう。裁判所に呼ばれた証人がこう宣誓する。「良心に従い、何事も偽らず、何事も付け加えぬことを誓います」。なるほど、良心に従えばそういうことができるのだ。では、なぜ良心に従うのか?おそらくこの場合は罪に咎められるから?

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「う~む…」。罪に咎められなかったら良心に従わないこともあり得る気がする。良心というのも、そうそう簡単でもなさそうだ。本能の良心もあれば作られる良心もある。身近な例で考えてみる。道で財布を拾った。中を見ると4~5万はある。さて、警察に届けるか中身を戴くか?本能的良心所有者は迷うことなく警察へ。どうするか迷う人は良心と悪い心とが戦う。

その場合、良心が勝てば警察へ。良心のかけらもない人は、迷うことなくぽっぽに入れる。概ねこの三態であろう。いうまでもない、社会の意志(要請)としては、警察へとなる。なぜかは、困っている人がいるだろうからだ。もし、自分が落とした場合も、届けて欲しいだろう。良心というのは、そうしたお互い様の心から育まれ、身につくこともあるだろう。

良い社会とは、社会の意志とは、それらの要請であり実現である。本能的に良心を所有している人、後天的に身につけた人はともかく、良心の呵責に悩む人は良心に従うことは大なり小なり苦痛がともなう。だからこそ、良心に従いぬく行動は、その苦痛以上の喜びがあろうが、目先の苦痛に怖気ては良心に負けてしまう。良心に従いきれなかった者の堕ち行く先はどこだろう。

良心は社会の無言の要請であるが、基本的に良心は自由で強制されるものではない。自由には現象もあれば本質もある。「ああ、ウナギが食べたい」と思ったらすぐに食べれる人は自由である。海外旅行に行きたいと思えば躊躇なく行ける人は自由であるが、それらは自由の現象であって、本質的な自由ではない。金さえあれば自由が堪能できる境遇というのは現象である。

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ならば自由の本質、幸福の本質とは何?「現象とは、事物の表面に現れた外的な事実、本質とは、現象の原因を作りなす事物や事柄の内的なもの」とヘーゲルは捉えた。言い換えるなら、本質とは現象の背後に隠された、客観的実在の内的な側面のこと。カントも本質を「物自体」とし、「物自体」は絶対に認識不可能であり、人間が認識できるのは現象だけと主張しました。

「物自体」というのはカントの個人的な仮説であり、想像であるが、カントのいう現象とは、主観の形式によって構成されるもの。これは分かりやすい。さらに後年サルトルが、「実存は本質に先立つ」とするなど、哲学は難しいが、頭が哲学的になると別の「生」の楽しみも湧く。つまり、「分かる」とは、違うということ、同じということの把握であり、そこが面白い。

自由とは、幸福とは、欲望とは、学問とは、教養とは、お金とは、青春とは、遊びとは、死とは、宗教とは、夫婦とは、恋愛とは、親子とは・・・、数限りない疑問のうねりの中で少しでも何かを分かろう、現象と本質の違いを探ろうとするのも哲学である。難しい哲学もあるが、日常的な身近な哲学もある。人間関係についても相手に対して毅然と構えることができれば傷つかない。

こちらが毅然とし、それで相手が傷つくのは仕方がない。すぐに汚い言葉や暴言を吐く者は頭の程度の低さを現している。そんな言葉に頼らずとも、人を追い払ったり分からせることは出来よう。「一」をいって「十」を知る者、「五」や「十」が必要な者、「十」をいえども「一」の理解に及ばぬ者、いろいろだから世の中楽しい。人間関係とはとりあえず協調、それから種々判断をする。

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若さはバカさ。「バカやったな~」、それが若さ。過ぎ去って分かることで当時は分からない。何かにつけて未熟としかいいようがない、それが若さ。平気で相手の自尊心をブチ壊す物言いをした。それも若さ。今はそんな気になれない。相手が自分に何をいおうが、どう評価しようが屁でもないし、それを楽しめる。他人の批判を自己啓発とした若き日は去り、今は「従心所欲」の日々…

最近あったことで、「自分は真実しか言わない(書かない)」、「自分のいうことは正しい」と、こういう奴はうじゃうじゃいた。そんな言い方に若い時なら、「自分が真実ってバカかお前は?自分で取材したわけでもない、何かの受け売りだろ?気取ったこといってんじゃないよ!」などと、相手を傷つけるというより無知さバカさに呆れ、強い口調で相手を傷つけたりはあった。

若さとは、エネルギッシュで率直でそれでよかった。土俵際まで追い詰められてうっちゃるより、速攻のけたぐりで相手を葬る快感があった。人は自尊心をもって生きているが、相手の自尊心を潰して何の得もない。「金持ち喧嘩せず」、「負けるが勝ち」の言葉の意味が理解できる年代になった。ホリエモンもいつしかそうなろう。人間は傲慢だから自分がエライと思ううちはバカだろう。

将棋の相手に大差で勝っていい気分…、それもくだらない。それで相手から憎まれることはあっても幸せになることはない。「緩める」というと語弊があるが、余裕があるなら故意に接戦に持ち込める。「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷精一郎は、竹刀での三本勝負において必ず二本目は負けたという。以前はこれを男の優しさと思っていたが、近年は心の余裕、ゆとりと考えるようになった。

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人にやさしい生き方もいいが、それはそれで相手に、「~してやっている感」も出よう。ならば、「ゆとり」の心の方が、生き方的には自然なふるまいではないか。目指すところは、「やさしい人」ではなく、「ゆとりある人」。その方が、「自由」により近い生き方に思える。作為のないやさしさ、それが、「ゆとり」であって、どうやって身につけるかの試行錯誤である。

光陰は矢の如し。過ぎた時間のなんという速さか。若き日には湯水のように溢れかえった命であるが、周囲からいろいろ訃報も聞こえてくるようになった。どう生きてもあと数年と思うなら、生かされるというより、一層主体的にいきるべきかと。特段、理想の人生などなかったが、ここに至れば然したる不満もない。過ぎたもの一切が今日まで、そして明日からという詩が過る。

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