「真面目でちゃんとした人間になれ」は母の常套句。100回くらいは言われたろう。いろんな反論をしたが、「ちゃんとした不真面目になる」と返すのがお気に入りだった。しつこい母は何度も同じ言葉を繰り返すが、負けずに「ちゃんした不真面目になるといったろ?」としつこく返す。後年、加藤諦三の著書に、「ちゃんとした不まじめ」という表題をみつけて笑ってしまう。
「若者の哲学」という書籍で昭和46年刊行である。小学生の頃の自分の言葉を加藤氏が使っていたので、驚きもし、親近感を覚えた。同著は自分の座右の書で、背表紙が擦り切れてしまっている。本棚にあってもどこか惨めに思え、数年前に同じものを古書店で買った。同名の書籍を間違って買ったことはあるが、意識して2冊買ったのは後にも先にもこれが初めてだった。
同著には、「不真面目」が、「不まじめ」となっているが、言葉で発している時はどちらというものでもない。ここで加藤氏は、「ちゃんとした」という言葉は非常に大切だと述べている。加藤氏のユニークさ、リベラルさは、大人から見てちゃんとしていなくとも、自分が生きる糧を自身で得ながら自分の好きなことをやって生きていれば、それもちゃんとした人生であると述べる。
「ちゃんとした」は一般的に社会的脱落や社会的承認の言葉だからか、「あの人はちゃんとした人」、「あの人はちゃんとしていない」などの言い方をする。「結婚するならちゃんとした人を選びなさい」と親はいい、本人も、「ちゃんとした人がいい」という。加藤氏がいうまでもなく、「ちゃんとした」の言葉を好む人は多い。が、天邪鬼な自分はこの言葉が好きでない。
「ちゃんとした」は世間評価の言葉であるなら、「ちゃんと」の意味がよく分からない。付き合い始めに、「あなたって真面目なの?」と聞く女性がいる。自分が真面目かどうかは人が判断することだから、「どういうのが真面目か自分じゃ分からない。人の見方だろ?」と返す。反対に女性に、「君って真面目なのか?」と聞くとほとんどの女が、「まじめじゃない」と返す。
「まじめです」と返した女がいた記憶はない。男から見て100%超真面目風な子ですら、「まじめじゃないです」と返す。この返答を不思議に思っていたが、「まじめな子は男に嫌われる?」という判断からの自己アピールではと感じていた。スキを見せて、「わたしを口説いて」と言いたげである。女の子同士の会話で、「まじめは嫌われる」というのを聞いたことがある。
それとも本心なのか?言葉の裏にある心を読むのは面白い。これこそが恋愛のエッセンス。自由人たる自分はドン・キホーテ的な人間である。自らに正直に忠実になろうと理想を追い求め、やや強い意志と精神力によって自らを抑え、人の噂や風評や思惑に惑わされることもない。孤高にして高潔、孤独に耐え、世の不正を憎み、断固として信念を貫き愛する者のために戦う。
と、どこまで自分がキホーテ的かはともかく、自由というのは自分が何を望んでいるかによって決まる。自由の根源は自分の思いであり、自分の意志であって自分の欲望や感情ではない。ゆえにか何も望まない人間に自由はない。しかるに自由主義とは、騎士道精神や武士道に通じる。体を鍛え、心を鍛える事によって自由になる。心身の鍛練こそが自由への道であろう。
健全な精神は、健康な肉体に宿るから、病気がちであっては不自由そのものである。自由人を協調性のない一匹狼ごときに言われるがそうではない。腹を割り、立て膝付き合わせて協調を望む人間がいないだけであって、自身の意志に反する事を強要されれば断固不服従であるが、自らが信じる者や愛する者に対しては率先して強い忠誠心を示すなどが特徴としてある。
自由もそれが日常的なら特段自由に感謝することもなくなる。親の鎖につながれている時に求めた自由が、それが満たされることで感激が遠のいていく。愛も同じことがいえる。人間はたとえどんなに愛されても、どれほど献身的な愛に尽くされたとしても、二人の愛ある関係を永続的に保つことは難しい。「愛されて結婚するのが幸せ」という女は結構な数いるだろう。
愛とは一人の相手を死ぬまで愛し抜くことをいうのだろうか…、どうなのか?もしそうであるなら、男という動物が一人の女を永続的に愛し抜くほど誠実に作られているだろうか?浮気はしないという男が、「嫁が怖いから」というのをどれほど聞いたことか。もし、男が一人の女だけを愛し続けたとしても、女は必ずやその愛に慣れるだろう。愛も自由も慣れに対処が必要。
真面目で律儀で一途な夫であっても、浮気心を抑えられぬ女性も増えた近頃である。どっちもどっち、男も女もたとえどのような深い愛情を得たとしても、そのことによって救われることはない。「愛される」という受動的な態度は、いかに激しく愛されても満たされることはない。ゆえに人間は、愛することでしか救われない。人を愛するという自己満足感は何をも超越する。
その愛が虚妄でないとどうして言えるだろう。口では「愛してる」といってみても、それが本心であるかないか本人には分かっている。思い込みで気づかぬ場合もある。「自己陶酔」というのは特殊ではなく、自分が自分に酔っている人はいくらでもいる。時に人間は自分の言葉に酔っていたと、「はっ!」と気づくことがある。その時のいいようのない寒い気持ち…、それをしらけるという。
しらけるというのは、自分の世界だけに閉じこもっていたのが暴かれたときに起こる心情だ。自分の世界だけに生きている時、そこに一瞬といえ、自分の世界とまったく関係のないものが入り込んできたとき、人間はしらけることになる。愛されていると信じていた女性がある時、「あなたのこと好きじゃなかった。好きな人は他にいました。」といわて、人間はどんなにしらけるだろう。
いわれたことはないが、露骨にそんな言い方をされた友人がいた。彼はしらけるどころか、それはそれは浮かばれないくらいにショックだった。「なんでそんな言い方をしたのか?」自分は女の心理を考えた。そんな言い方せずとも、愛を終わらせることはできたろうが、あえてそんな言い方をしたのは、そのことで男がどんなに落ち込むのかを見たかったのだろう。
ヒドイ女である。「ヒドイ」以外にも言葉は浮かぶが、どれにしたところでヒドイ女に違いはない。去るのは自由、去っていく自由はあるにしても、去っていく相手に唾を吐きかける必要がどこにある?彼はその女に尽くした男である。少しばかり頼りなさはあっても一心に尽くしていた。だから、相手からも愛されていると思っていた。それがある日を境に世界が一変した。
二人は週末同棲を楽しんでいた。彼のアパートに彼女が来、彼は彼女の居場所を知らないという。「聞かないで」といわれたので律儀に守っていた。別れを告げられたアパートには彼女の生活用品の一切が消えていた。昨日とはまるで変った部屋で彼は一人、恋の別離を泣いていたのだろうか。「人は誰も自由。彼女の自由を受け入れろ」。慰めにもならぬ言葉を彼にいった。