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自由とは何か? ⑧

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本年度のノーベル医学生理学賞が京都大の本庶佑特別教授(76)に決まった。本庶氏の研究があらたながん治療を見つけた。従来型のがん治療は従来、外科手術、放射線、抗がん剤が中心だったが、「免疫でがんを治す」という第4の道をひらいた。1日の会見で本庶氏は、「回復した患者から喜びの声を聞くと、自分の研究が意味があったとうれしく思う」などと語った。

またしても京大からの受賞者で、むか~し、京大が東大に比べて自由な校風である理由の一つに、選択科目が必修科目より多いと聞いたことがある。それは今も変わっていないのだろうか?「東大より京大にノーベル賞が多い理由」で検索するといろいろ記されている。中でも今も昔も変わらぬ権威性として、「四行教授」のステータスが高いという信じがたい現状というくだり。

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                 座右の銘は、 「教科書を簡単に信じず、自分の目で…」


四行教授とは履歴書に、「東京大学卒、東大助手、東大助教授、東大教授」の四行しかない純粋培養の道を歩んだ人のことだ。これが最も由緒正しいとされている。何の由緒か?ステータスのそれである。東大では、研究や教育の現場で、「ときめく」経験に出会うことが、世界の一流大学に比べるとはるかに少ない。理由は東大型の土壌にどっぷりつかっているからだ。

そのことが多かれ少なかれ、「権威のクローン」になってしまう。根と幹はどんどん太くなって、効率的にたくさんの論文など果実が収穫できるようにはなっても、魅力溢れる新しい芽、そこからの新しい樹とその果実をもたらすことはない。学校の目的、教育現場における最終的な目的は人づくりであるが、東大においては権威作りこそが主眼というように聞こえてしまう。

東大には塾で偏差値という栄達を掲げた秀才ばかりが集まるところ。言い換えるなら、東大に入るための勉強は、「名人級」であるが、果たしてそれが学問なのか?というと疑問符がつく。料理の名人は、「味の素」は絶対に使わないというが、東大というところは、権威づけの元だからそれを笠に着ていれば、後はやりたい放題。それが東大出身者の、「旨味の素」かも知れない。

受験秀才の問題点は以前から抱いていた。彼らは知識の習得は早いし、暗記力も優れている。が、新しいことにチャレンジしたり、何かにこだわる執着心は少ないようだ。結局彼らが一番得意なことは、教わったことを忠実に覚えてどこかに吐き出すだけで、オリジナリティーがまるでない。オリジナリティーを産む元になるのは子ども時代の感動やとことん何かをやった経験である。

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偏差値を競い合う受験教育、こんなバカげたことをしなくてもいい世の中にしなくてはいけない。そんなことは誰でも分かっていたのに、受験産業が自滅衰退するような改革は誰もやらない。やればやったで大騒ぎで批判する。潜在力ある子どもを中学受験は潰している。学歴主義、偏差値主義が染みついた子どもたちは、彼らの貴重な黄金期である子ども時代を親が奪っている。

物理学の世界に天才的頭脳はいらない。自由な発想と地道な努力があればいいという。誰もが認める天才アルベルト・アインシュタインの脳は、死後に家族の許可なく彼の体から取り出され、トーマス・ハーベイ博士によって解剖され、40年間もの長きを研究に使われた。その後は分割されて研究者たちに分けられたが、一般人の脳とくらべて3つの点が大きく違っていたという。

 ①右脳と左脳の間にあるミゾが浅い。
 ②一般人の脳の重量1400gにくらべて軽量(1250g)だった。
 ③グリア細胞(神経細胞に酸素や栄養を運搬する)が多い。

これらが、アインシュタインを天才にしたのではといわれている。意外なのは脳の重量で、以前は大きくて重い方がよいとされていたが、関係なかったようだ。彼は学校の成績は最悪の落ちこぼれレベルで、Appleのジョブズも成績は悲惨だった。教師⇒生徒への画一的な知識の伝達という勉強が、如何につまらないものかを示すが、学校の成績が良いとなぜ親は喜ぶのか?

自分にとってそこは素朴な疑問であるが、頭の良いという基準が自分と違うのだろう。死後に脳を取り出されるなど本人も思ってみなかったろうが、「天才とは努力をする凡人」という言葉を残しているのをみても、天才は自分を天才とは思わないようだ。彼らは普通に考えているだけだろうから…。世に天才といわれる人は多いが、努力をして何かを成し得た人たちであろう。

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将棋の藤井聡太くんも天才といわれるが、彼の子ども時分のノートにぎっしり書き込まれたものをみると、5歳の子がここまで何かに入れ込むことができるそのことが凄いと思わされる。彼が幼児期から指したこれまでの対局のすべてが彼にとって肥やしになっているのだろう。同じことは、過去に読んだ本、出合った異性、話し込んだ友人たちの一切が肥やしと思っている。

何かに挑戦すれば必ず失敗もし挫折もする。その経験のないものは行動しなかったということか?失敗を当然とすれば挑戦を怖れることはなかろうに。行動しない人間の特徴は、失敗自体を怖れるというより、失敗をするのではと…、そのことを怖れるのが分かる。これも自分からみると不思議な人間である。つまらん自尊心や見栄や、自身に過保護なにんげんであろう。

とかく自由というのは、自由な精神をいう。哲学用語で「自由精神」といえば、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』で述べているように、あらゆる価値の転倒を実現するためには、それにふさわしい精神が必要でそれを、「自由精神」と呼んでいる。思考していて何が面白いかといえば、99人が、「No!」ということに対して、「Yes」といえる人間でいること。

これこそが「価値の転倒」であろう。人によってはへそ曲がりなどというが、言葉は何でもいい。自分自身が何事にも囚われない、束縛を受けない自由な精神を持っていることが楽しいのである。自由な精神はまた、「非常識」などといわれるが、そういうつまらんことをいう人間は、「生」を楽しんでいるのだろうか?あるいは真っ当な、「生」を望んでいるのかも知れない。

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「真っ当な」という言葉はに面白いニュアンスがある。 正統な ・ 適正な ・ 適した ・ 尤もな ・ 適切な ・ 適当な ・ 正しい ・ 然るべき ・ 当然な、などの多くの同義語があり、沢山あってよかったね~、といいたいが、いずれも自由な精神とはかけ離れている。分かりやすくいえば、「ちゃんとした」である。思えば、「ちゃんとした」という言葉は、母親の大好物だった。

頭の中にこびりついた、「親の戯言」というのはいくつになっても残っている。「戯言」でなく「名言」や、「直言」ならまだしもだが、「戯言」であれ、それをくだらな」と思う限りにおいて自分にプラスになる。親など大した生き物ではないなら、「逆もまた真なり」という、批判精神、反抗精神に照らし、それが重要である。ダメをダメと理解するのは妄信より格段に頭の良さではないか。

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