カントの散歩は日課だったが、あの時代にスニーカーはない。革靴でゆったりのんびり汗もかかない程度に歩いたのだろう。歩く速さには人それぞれのテンポがある。音楽の速度表示アンダンテ(Andante)は、歩くくらいの速さをいう。語源は「andare」で、「行く」、「歩く」である。自分の歩く速さは速めのアレグロ(Allegro)で、ゆったり歩くとだらけて疲労が増す。疲れないために速く歩く。
ちょいと前にスニーカーを買った。一度に6足だから、シューズ的には大量買いになろう。まだ一度も履いてないのが数足あるのに、なぜ買ったのか?答えは買いたかったから買った。その奥にある無意識化されたものを想像すると、遊びをさらに楽しくするためか?ウォーキングもブログも、カントの散歩も、お遊びの日課。スポーツは身体を動かす遊びである。
モチベーションをあげるためでもない、下がらないようにとの理由でもない。おニューのシューズを始めて履くときは気持ちがいい。気持ちのどこかがリフレッシュされた感がある。一年に一足償却するとして6年後の先取りだが、6年後も歩くのか?歩くだろう、そりゃ。年齢なんてのは単に記号(数字)、大事なのは気持ちと、気持ちにこたえられる肉体である。
まあ、人間は動けなくなったら終わりだ。動けなくて何が動物か。だから植物人間という。両杖、片杖でゆっくりと、ナマケモノのように歩く爺さんに出会うこともある。自分もあんなになるのか?などと考える。加齢で動作が鈍くなるのは、体力の低下が原因という。体力低下とは筋肉や関節の衰えをいう。さらには運動神経や平衡感覚機能も老化に伴い低下していく。
それがとっさの反応を鈍くすることで、転倒や事故に巻き込まれる危険性が高まる。階段は必ず駆け足で降りる(習性)ので、足がもつれたら大変なことになるなと、そんな想像をしながら、それでもスリルと刺激を楽しみながら速足で駆け降りる。用心はしても災いは突如おこる。その時は、「バカなことをしたな」と思うのだろう。それまで止められそうにない。
刺激とリスクは紙一重。階段というのは、立体的なので視覚が衰えてくると正確に段差を認識することが難しくなる。年寄りに階段は要注意で、用心深い人はエレベータなどでも手すりを持つ。階段に手すりがあるのは、高齢者と子ども用だろうか。未だ冒険少年気分だから、口うるさく何かと小言をいいそうな人もいようが、聞く気はない。痛い思いをしたら考える。
冒険家といわれる人たちは、どこかでプツンと消息が途絶えたりする。ゆえに冒険家なのであって、「それ見たことか」と、家でじっとテレビを見ている人間が、いかなる言葉を吐き捨てようが冒険家批判の自己満足にである。冒険で命を落としても、それが冒険家の生涯なのだ。冒険心は男のロマンだから、やむにやまれぬもの…。冒険バカは男の甲斐性かも知れぬ。
レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』の世界観。チャンドラー作品を女性が手にするとも思えない。世の中には男オンリー小説、女オンリー小説というのは存在する。高校のとき、『アンネの日記』が女子に大ブームになった。興味があって借りて読んだが数ページで挫折した。返す時に、「悪いけど、自分には無理」と悪びれずに言ったのが懐かしい。
「愛と自由」というのをよく見かける。いかにも愛と自由がセットになっている印象だが、ここでいう自由とは何に対しての自由なのか?自由に人を愛せよということか?愛の束縛から逃れる自由なのか?自由だ、平等だ、愛だのと騒ぎ立てる前に、先ずは正しい意味を理解する必要がある。その上で、自由や恋愛について語る方が、自分的には面白いと思っている。
意味の理解など必要ないという人もいようが、それとて自由である。人は人の自由にいちゃもんつけて楽しむよりも、己の自由を行えばよい。愛について率直に語るなら、人を愛することが特段いいことだとは思っていない。自分が人を愛したいからするのであって、人を愛するのがいいことだから、「やる」ものでもなかろう。現実には良くないとされる愛もあるわけだ。
そういう考えに浸るなら、普通の愛がよくて、不倫が悪いという見方にならない。愛は善悪を超えたものであり、善悪を定義するなら不倫に刑罰があってしかりである。すべてはモラルの問題であり、モラルとは個々の価値観である以上、他人のモラルに口出しする人間は暇人か、聖職者か、悪口好きか、道徳気取りのどれかである。自分はどれにも属していたくはない。
仮に暇人の部類であっても、「つまらぬ暇人」などにはなりたくない。自堕落な人間についても同じ考えでいる。自堕落な生活をする人は自堕落な生活をすればいい。それが自分に合っていてそれをしたいなら、人からとやかく言われることもない。ただし、自堕落でいたくないのに自堕落になるというなら、自己と格闘することだ。他人は自分に何の力にもなれないのだから…
それが分かれば依存もしない。禁酒・禁煙と同様、自己との格闘、自己の努力である。「井戸端会議」という面白い言葉がある。近頃は井戸でたむろする女性はいないが、同じことがテレビのワイドショーである。ゲストやコメンテーターらが、井戸端会議をし、それを視聴者がみて喜んでいる。参加してる気分なのだろう。井戸端会議が好きなものはやればいい、みればいい。
日々自らを鍛えたい人は鍛えればいいが、自堕落な人間を卑下する必要はどこにもない。自分を磨けばいいのであって、人を卑下して自分を磨くことにはならない。むしろ、自分を貶めていると思われる。人を愛することがよいと、そのことに理由をつけるなら、人を愛することは何より自分を磨くことになるからだ。そう考えると、昔と今とでは人の愛し方が違っている。
つまり自分の磨き方が違ってきている。人を愛することで女性が、その人のために美味しい料理を作り、自らでセーターを編むなどは、珍しい光景ではなかった。それは何ら努力も必要とせず、何の厳しさもなく、むしろ喜びであった。それをよき時代と思うが、だからといって昨今の即物時代を非難することもない。時代に合った価値観の中で人は生きているのだ。
一人暮らしをしていたころの思い出だが、付き合っていた女が住み込みだった。アパートは4畳半一間、風呂もキッチンも洗濯機もない。下着類はタライで洗い、それ以外はクリーニング、コインランドローなどない。彼女は週に一度自分のアパートから一週間分の洗濯物を持ち帰り、翌週届けてくれた。きれいにたたまれた洗濯物はホワイトワンダフルの香りが漂っていた。
「わたし、ホワイトワンダフル好きなの」という彼女に洗剤なんか何でもいいの自分は女らしさをみた。自分が命じ、彼女が渋々やったのではない。彼女はそれがしたかったようで、当時自分にその考えはなかった。楽だし、便利だし、さほど感謝の気持ちもなく、そういう彼女がいながら女遊びをしていた。愛が何たるかなど、分かるはずもない22歳の若造だった。
勤め先の主人に男物の下着がバレて注意を受けたが、自分には言わず彼女はそのことに、「何が悪い!」と反抗した。とどのつまりは洗濯物の主である自分まで呼び出されるというなんともくだらない時代である。「他人の分を洗うことで余計な水道代がかかる」と、そんなことしか言うことないのかだった。彼女が言うことを聞かないからと、自分に腹を立てているのだ。
彼女は頑強だった。それはその時も感じたが、大人になって当時を回想するに、とてつもない自分への愛の強さと感じた。それほど愛された理由は分からないが、自分が支払うデート費用の、彼女自身の支払い分をこっそり貯金箱にいれるそんな女だった。「愛は裏切るもの」、22歳のバカ男は人の真心さえ踏み台にして大人になっていくのか。Farewell My Lovely…