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自由とは何か? ⑥

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「働かざる者食うべからず」という言葉は誰もが耳にしたはず。にも拘わらず働かざる者が増えてしまっている昨今は、上の慣用句が何の意味もなくなっている。「働かぬ子に食わす飯などない」という親はいないのか?働かず引きこもる子に餌を与える親の心中は?時代も変われば新しい慣用句も生まれよう。「働かざる者に食わせる親がいる」と広辞苑にのせるべき。

彼らニートたちは、人間だから生きていられるのである。人間以外の動物なら、とっくにくたばって死んでいる。グリーンランド東部のノバヤゼムリャ島は繁殖地であるカオジロガンは、捕食者から卵を守るため、高い断崖絶壁の上に巣をつくる。ヒナが生まれてわずか数日で親鳥はまず自ら崖の下へと飛び立っていく。そしてもう二度と崖の上の巣に戻ることはない。


ヒナが巣にいてもである。カオジロガンは習性としてヒナのいる巣に餌を運ぶ本能行動がないからで、ヒナは今後は自分で餌をとらなければ生きていくことはできない。その為、親鳥の待つ地上に自らの力で辿り着かなければならないのだ。親鳥はヒナの来るのをひたすら下で待つ。崖の上から地上まで、その高さは100メートルをはるかに超えているが、翼のないヒナは飛べない。

あとは映像にあるとおりで百聞は一見にしかず。決死のダイブは本能習性であろう。生まれて間もないヒナが考えての行動ではない。飛び立った、いや、飛び降りたヒナは途中何度も崖に体を打ちつけられてしまう。それはもう、見ていられない情景である。最後は崖から転がるように落ちてきた。心配でたまらなかった両親が近寄ってくるが、親は心配以外の何もできない。

厳しい自然の中でもっとも過酷な生存の為の通過儀礼とはいえ、カオジロガンのヒナたちの勇気を心から称えたい。この映像を見たニートたちが、「ああ、人間でよかった」と思うのか、それともこの映像からなにがしかの触発を得ることになるのか…。彼らの自由裁量であろう。カオジロガンにはカオジロガンの、人間には人間の生き方があるのは疑いのない事実である。

が、成長や成熟というのは誰かや何かに影響され目覚めることだから、人間がオケラやミミズに影響を受けたところで、何の悪かろうはずはない。引きこもりやニートたちがカオジロガンから何かを得たとしてもである。確かに巣(家)は安住であるが、彼らにも普通の青春の若者としてのもとの性質はあろう。伝統であったり、民族性への帰結であったり、あるいは反逆であったり。

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逃亡であったり、そうした衝動をもって若者は存在するはずだ。それはまた、滅亡か新生を賭けて、新しい土地、新しい場所で、新しい生活を求めるためにだ。そういう自由が与えられていながらなぜに行使しない。家でくすぶっている若者たちはいつ巣立ちをするのだろうか?せっせと餌を運んでくれる親が他界すればなのか?そうであっても、そこにはもう若者はいない。

人間は自由のもとに成長する。与えられているにも関わらず自由を行使しないなら、人間はその自由のもとに頽廃することもあろう。つまり、人間にとって自由とは、真に生き甲斐を得ることのできる自由であった。だが、またある人にとって自由とは、生き甲斐と自らの価値観を失ってしまう自由であった。このように考えるなら、自由とは人間の試練の場でもある。

自由のもとに栄えていくか、自由のもとに滅びるのか?それら誤魔化しの効かない生き方によって、自らの存在意義を確信できる時代は過ぎてしまっている。二度とない青春を横臥したものにとって、若さとは香しいものである。貴重な時間とは知らずに過ごしたものの、貴重な時間であったのはそれなりのことを成したからだろう。何かをしないで何が脳裏を駆け巡る?

 たれかおもわむ鶯の 涙もこおる冬の日に

 若き命は春の夜の あゝよしさらば美酒(うまざけ)に

 うたい明かさん春の夜を

島崎藤村の「春」の冒頭である。子どもの頃、天文学博士になりたかった。天体望遠鏡で星空を観測する子どもの漠然とした夢であった。本当になりたいというのではない他愛ないもので、当時の男の子の将来の理想像を、「末は博士か大臣か」と表現したのも世間的には最高の栄達と考えられていた。それに迎合していった訳ではないし、博士が単にカッコよかったからである。

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ものしり博士のケペル先生、アトムを作った天馬博士、アトムを修理・管理するお茶の水博士、ロボット三等兵のトッピ博士、鉄人28号を作った敷島博士、ゴジラを研究する山根博士など、白衣をまとった博士は子どもの憧れだったが、ケペル先生は普段着だった。さらに日本人として初のノーベル賞受賞の湯川秀樹博士は、ノーベル賞を知らぬ子どもにも凄い人だった。

ノーベル賞もしらない、湯川博士が何をしたかも知らない。高校物理で原子核内部の陽子と中性子が中間子をやり取りするのを教わった。それを発見したのが湯川博士である。もっとも湯川博士が最初から現物の中間子を発見したのではなく、当初中間子理論は仮説にすぎなかったが、「仮説を考えついた、思いついた」とは、くだけていえば、「閃いた」である。

いろいろなものがトイレで浮かぶことは知られているが、博士は中間子のことを寝床で思いつき、二年後に発見された。「閃きも真実になる」。「嘘もつきとおせば真実となる」などという。これはエンゲルスの、「誤謬は真理となる」をもじったものか。確かに間違いは真理の現象であって、間違いを無限に改めていくことが真理の本質である。間違いを怖れることなかれ。

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大事なことは間違いを改めること。無限の自己否定の彼方に真理はあろう。故に変革を怖れる者や現状維持を望む者の側に真理は現れない。唯物論信奉者として真理などの言い方は好きではないが、間違いを改める姿勢を崩さなければ、いつしか正しいものに近づいていくだろう。現状に固執することなく、変革を怖れず、失敗も気にしない、それが自由かも知れない。

「日課」というのは日々の生活のなかで何かを自身に課していることをいう。自分ならウォーキングとブログだろう。前者は手軽な筋トレ、後者は気軽な脳トレかもしれない。確かに歩くのは身体の運動になり、文を書くのは頭の運動になる。「課す」は「強いる」とは違って強制でなく、「義務づける」ニュアンスがある。もはや義務づいてるならそれは生活だろう。

生活とは、食う、寝る、出すがメインの自然現象で、ウォーキングもブログも義務意識はない。メシを食い、ウンチを出すように歩いている、書いている。習慣になると意識すらなくなる。では、モチベーションはどうなのか?食事やトイレにモチベーションはない。最近はコラボ、モチベーションなどと普通にいわれるが、前者は共同作業、後者は動機付けの意味。

ということならウォーキングもブログも動機付けや意欲の低下はない。おそらく無意識の動機付けはあるのだろう。前者は健康のため、後者はボケ防止というような。意識をして始めたものが、意識がないでもやれるのが習慣というものか。日課を気軽に習慣といっていいなら日課である。カントは散歩を日課としていたが、自らを強いるでなく自然に靴を履いたのだろう。

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