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自由とは何か? ⑤

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「自殺は人間の最後の自由」というのは検証する必要はなかろう。間違いなく自殺は人の自由な行為に違いない。生きることが辛く苦しい状況にあって、死ぬこと以外にその苦しみから逃れる方法がないなら、死を選択するのは仕方のないことかもしれない。が、思い立ってすぐに死ねるほど人間は単純ではない。死を敢行するまでの気持ちの成り行きは複雑・微妙だろう。

すぐに死なないで迷うのは、本当は死にたくないのだろう。それでも死を実行するのは、死にたいが死にたくないに勝利した結果で、本当に死にたくなかったなら人は死なないだろう。死んだからには死を決意し、実行したのは分かり切ったこと。自殺者の遺書の中に、「ぼくは死にたくないです」、「本当は生きていたいけど、もうダメです」などの文言を見ることがある。

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言葉通りの意味なら分かり難い意味ではないが、自殺をする人は死にたくない気持ちがすっかり片付いた後に自殺するとも思えない。おそらく生き延びたい願いの炎が激しく燃え盛るなかで我と我が身を殺してしまうのではないだろうか。生きたくないから死ぬのではなく、生きたいからこそ死ぬというのが自殺の矛盾であって、果たしてその矛盾を解くことは可能なのか?

もし、人間が生きることだけを求める生き物なら、これほど多くの人が自殺をすることはない。人間の多くは生きがいを求めて生きているはず。生きがいとは一口にいえば、自由に生きることの喜びであろう。したがって、精神面や物質面において自分が求めているものへの到達の自由が塞がれてしまったと感じられるときに、人は手元の最後の自由の行使を考えるだろう。

それが自殺である。このように考えるとやはり自殺は、"人間最後の自由の行使"と考えられる。さまざまな自殺の原因はあろうが、人間関係のトラブルが多いのではと察する。いじめや孤立感など人間関係の思い悩み、上司との関係や仕事上のプレッシャー、失恋や受験などの挫折感から将来を憂いての自殺もある。分からないのはいじめを苦にした子どもの自殺である。

なぜ、死ぬ覚悟を決めた人間が、死ぬ気でいじめ加害者にぶつからないのだろうか?仕返しさせるのが怖いのか?核家族時代においては、兄弟げんかなどの怒りのぶつけ方・鎮め方のノウハウを得ない子どもが多いのか?兄弟げんかには心理学的な功罪がある。兄弟に上下関係は歴然とあるが、喧嘩の際には上も下もない。親子げんかも上も下もない。対等だから喧嘩になる。

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戦いといっても、殴る蹴るの暴力ばかりではない。本音をぶつけるのも抑圧されていた気持ちを爆発させるのだから、言い合いも含めて喧嘩である。ある時期に自殺を考えた者は結構いる。自分もそうだが、多くの人間から自殺を考えたときの状況を聞いたが誰も遂行していないし、だから話が聞けたのであって、「なぜ止めた?」の理由の多くは、「死ぬ勇気がなかった」と聞いた。

なるほど…。死ぬのは勇気がいるようだ。自分の場合、親への当てつけであったが、どう考えてもそんな動機で取り返しのつかない自殺は大きな損害に思えた。「親への当てつけ」というのは、被害者意識丸出しであって、それ以外に親を反省させる方法、悔いいらせる方法がないという短絡発想だった。自分の命と引き換えに親を反省させてどうなるというのか?

自分は男の子だから、そんなことを論理的に延々と考えた。してその結論は、死ぬのはバカげているである。おセンチになったり、ナイーブになるから自殺を美化するのであって、そんあのは感傷的自殺と命名する。子どもの自殺、特に少女の自殺はナルシシズム的感傷自殺が多いのではないか?死ぬことによって、自らをヒロイズム世界に誘導するのだろう。

少女はセンチメンタリズムを美化するのかも知れない。後先を深く考えないで、死んでいく自分を哀れなヒロインと見立てるなら、死ねば未来を失うという損得感情は沸かない。あくまで想像でしかないが、傷つきやすい多感な少女期の複雑な心情と解する。死ぬのに勇気は必要だが、感傷があればそれも死への誘いであって、自分という個体の損失は勿体ないという発想はない。

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この世で生命の損失が何よりも勿体ないと思う。なぜなら、修復・再現は不可能だからである。壊れた機械のように修理は効かない。どんなにつらいいじめにあっても、死ぬのは損、勿体ないと考える子は死なないだろう。あるいは自分のように、バカげていると考えたりの子。自殺は最後の自由であるが、「最後」というところに含みがある。同じ自由でも、「自由を得る」ではない。

「自由を使い切る」ということだ。死ぬために自由を使い切るというのも損ではないのか?しかし、苦しく生きていけない人にとっては、最後に用意された自由を行使することになる。自分の自由を害されることで生きがいを失うといっても、他の何か生きがいを探すこともできるわけだ。あるいはどんな人間も100%の願いが満ち敵って生きてるわけではないのだから。

だれかれなしに不自由を生きている。こんな風に発想を膨らませていけば、目先のことは矮小化されていく。いじめは嫌でも、いじめられることが自分のすべてではなかろう。一日24時間の中で、いじめられる時間はそれほど多くない。もっとも、いじめを受けてるものにとって、多い少ないではないのかも知れぬが、多い少ないという考え方に持っていくことはできるだろう。

自殺が一つの自由であるというのなら、自殺せずに済ませる道もあるということだ。それなのに、自殺一点に凝縮させて考えるから、自殺しか頭に浮かばない。自殺行為者は、広い視野、広い視点で物事を考えないのかも知れない。「子どもは大人を模倣する」。これは昔から言われることだが、もしも大人の自殺が少なかったら、子どもの自殺は減るのだろうか?

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「禅の悟りとは、いつでも死ねることかと思っていたら、いつでも生きられることだった」と正岡子規は言っている。どんな過失やどんな失敗を犯そうと、思いつめることなく図太く生き抜いてやろう。生き抜くことの方が死ぬよりも難しいと子規は禅から受け取った。これに対して、「死ぬのがそんなにたやすいというなら、死んでみたまえ」と皮肉ったのが芥川龍之介。

その芥川はこの三か月後に自殺したのだから、正岡を皮肉ったころの彼は死ぬことをしきりに考えながらも、なかなか死ねなくて苦しんでいたことになる。死ぬことの難しさ、大変さにイラついていたときに、気安く死を語る正岡に腹を立てたのだろう。正岡は22歳で肺結核、さらに脊髄カリエスを患った。腰から歯ぐきから出る膿みをたえず看護者にふき取ってもらっていた。

それでいながら普通の人の何倍もに仕事を成し遂げる不屈の人生を送った正岡は、『病牀六尺』のなかで、「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならねば生きていても何の面白みもない」と述べている。正岡は句界に大きく貢献したが、34歳にて没した。確かに、死ぬことが苦になる限りにおいては、寿命がいくら延びたところで同じことかも知れない。

人生において一番大きな、そして一番根本的な矛盾は、じっとしていても腹が減るのに、働かなければ食えないということ。これは芥川の箴言集にでもありそうな言葉だが真面目な問題で、我々の生命そのものの本質的な矛盾をついている。人は生きる努力をしないでじっとしていれば死ぬのよ。「命」の本質は死、無理に自殺などしなくとも、じっとしていれば死ぬ…

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