なにびとからも強要されず、すべてのことをを自分の意思だけで決めていけるのは、無人島に漂着した以外にはあり得ない。ロビンソン・クルーソーではないが、無人島ではそう生きるしかできない。誰にも相談できない、協力も得れない、自分の行為においても正しいか否かも分からない。それがいいのか?それが幸せなのか?というより、それ以外に生きる方法がない。
そこでは自分が行ういかなる行為における善悪の定義もなければ、善か悪かを心配することすらもない。と…いいたいところだが、よくよく考えるとそうではない。善か悪かを考える必要はある。確かに、誰に気兼ねなく、したい放題にふるまうことはできるが、ただし、自分のためによくないであろうことはしないはずだ。それが自分にとっての善・悪の基準となっている。
無人島についたからといって、何もないから何もしないのは、自分にとって善とはいわない。石器時代の人間のように、魚を捕るための釣り針や棹を作ることも善である。そこで死にたいならともかく、何とか生きるために行うすべてのことは善となる。晴れたある日にたきぎを沢山拾い集めた。その後に幾日も雨が降れば、「ああ、善いことをしたんだ」と思うだろう。
これをみても一人で生きていく際に、自分にとっての善悪は存在するが、これらは道徳的な意味での善悪ではない。人間社会における人間の善悪とは、自分がしたいと思うことでも、「悪だから」と止め、自分がしたくないことでも、「善だから」と行為することは必要だ。歩道を歩いていたら向こうから豊満な胸の女性が来た。すれ違いざまにその胸を触って通報された。
駆けつけた警官はとりあえず、「何でそんなことをしたんだ?」と理由を聞くだろうが、「つい触りたくなったので」、「魔が差した」などと答えたところで、行為の犯罪を許してはくれない。「お前な~、いい歳こいてバカやってんじゃね~ぞ!」とお叱りも受け、書類送検される。人と人が共生する社会において、共通認識としてのルールが、道徳的な善悪と定められている。
にも拘わらず同じようなことを繰り返すなら、彼は人生の多くの時間を獄舎に繋がれる。自由きままで好き勝手な行為の代償が獄舎なら、人が社会で自由に生きることは、自由を制限する必要がある。「人は自分の思うように自由には生きられない」。人間の善悪とは、人間が繁栄し、共同生活を行う中から生まれ、それが社会の発展ともにさまざまに変化したものである。
無人島漂着者にとっては、彼個人の利害が善悪の基準となっている。しかし、社会が複雑になればなるほど、人間総体としての共同善が一筋縄ではいかなくなった。つまり、自分の利害と他人の利害とが、しばしば対立しあうのは珍しいことではない。それにはさまざまな要因があるが、分かりやすい一つの例をあげれば、需要と供給のバランスの問題もある。
一流大学と三流大学があれば、誰もが一流大学に入りたい。中には自分はのんびりやりたいので三流大でいいと思う者もいるが、お金を出す親がそれを許さない。本人がしたいことをさせない親の傲慢が、こういうところから生まれてくる。挙句は無理をして一流大に入ったはいいが、勉強についていけず留年の連続で、遂には退学を余儀なくされるケースもある。
親の見栄の犠牲になった子どもは少なくない。大した頭のつくりでもないのに近年の学習塾の隆盛もあってか、過去問をたくさん解いたことによる即席学力が幅を利かす時代でもある。近年に至っては学力はお金で買う時代と揶揄されている。こんなくだらない競争社会に誰がした?一流高校、一流大学に定員があることで競争が生まれ、どんどんエスカレートしていった。
競争社会が生んだ多くの負の遺産の一つに、他人の不幸を望む人間が増えたこともある。学校も就職も競争なら、人は我が身の安全のためには他人の能力が高まらぬよう願うか、もしくは他人よりも能力的に向上が見込める塾などに籍を求める。皆が能力を高めて活躍すれば社会は発展し生活も豊かになるが、その反対を願う社会は、仕組みそのものが間違っている。
こうした構造的誤謬になぜ国は本腰を入れなかったのか?明らかに受験産業と官僚や政治家の癒着が見える。官僚も政治家も国のことより自分の生活を考える似非公僕に成り下がった。人間の基本は自己中であり、善悪の根本的な規準の心得を知り、問題点を把握していても、本気で取り組もうとはしない。ある文部官僚が危機意識から、「ゆとり教育」を打ち出した。
ところが「ゆとり教育」は、あれよあれよという間に悪玉にされ、最終的に潰されてしまった。ケンブリッジ大のある教育研究者は、「ゆとり教育」をやり玉にあげた日本の内情について、「日本の生徒が世界一になる可能性を潰した」と述べている。試験でよい点を取るだけの教育に傾斜しがちな日本人への警鐘だが、その裏には巨大な受験産業の目論見がある。
「ゆとり教育」が問題視されたのは、2003年に実施したPISA(国際学力テスト)の結果が2004年に発表され、日本の読解力の得点が下がったとわかるや、その原因として、「ゆとり教育」が槍玉に挙げられた。そうした批判に敏感に呼応した日本政府は、次第に数学や国語の時間を増やすようになり、2011年には、「ゆとり教育」のほとんどは廃止されることとなった。
日本の子どもの、「15歳時点の学力」は世界トップレベルにある。が、「世界大学ランキング」では苦戦しており、大学生の“質の低下”を嘆く声も聞かれる。なぜそうなってしまうのか。国際学力テスト「PISA」で優秀な成績を収める5カ国を実地調査したクレハン氏は、「世界大学ランキング」は、学生の能力の高低を表すものではないとしながらも、日本独自の問題点を指摘した。
この件の詳細は省くが、「何が善で何が悪か」を探すのは、倫理学の根本問題である。このことで昔から多くの学者が頭を悩まし、多くの戯言も述べてきた。代表的に二つをいえば、「人間の欲望」を規準とするもの、もう一つは、「神の意志」を規準とするものである。しかし前者の問題点は、欲望に逆らい苦痛を犯して実現される、「善」についての説明がつかない。
また、「神の意志」を規準とする学説においては、人間離れしたような頭ごなしの命令ともいうべく押し付けには納得し難いことも多く、「神の意志」であることを納得させるためには、「神」が確実に存在するという証明も必要となってくる。どちらであったとしても善悪自体が矛盾を持つものであるから、どのような説を持ち出し、規定をしたところで土台無理がある。