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自由とは何か? ②

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母親の締め付けがキツかった子どものころ、どれだけ自由に憧れたことだろう。自分の求める自由とは、ただ母親から離れること。それだけで十分に自由であるように思え、離れてみると実際その通りだった。友人や仲間のことをボロカスにいい、「あんなのと付き合うな」と制止する。思春期時期には恋愛の邪魔をする。こうした行為が嫌がらせでないなら何だというのか。

彼女とは河の土手を散歩する程度の純愛だが、母は不良女と罵り交際を禁じる。従わないでいると、なんと彼女の姉の勤め先を探し出し、姉に息子と会わないようにと頼みこむなど、やってることは狂人である。何が気に入らないという以前に、執拗な嫌がらせとしか感じなかった。母は気に入らぬことはいかなる手段を講じても阻止しなければ気が収まらない性格である。

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が、そんなことは大人になって分かったことで、中高校時代には敵対する自分に対する嫌がらせとしか考えなかった。理由はともかく、当時も今も、そこまでする親はキチガイとしか言いようがない。親として、母として、女として、いかなる心理的理由があろうと、そんなものは認めることはできない。こんな異常者から逃れない限り、生きる実感など味わえるはずがない。

それほどに母には決死の覚悟で反抗したが、それに対する仕返しが必ずなされることからして、決して自由を獲得するには至れなかった。母を亡き者にしないでよかった、自らを葬ることをしないでよかったのは正直な思い。そこまでせずとも離れることで解決する問題であり、ひたすらその時期を待てと言い聞かす。我慢とか辛抱とかは、展望があるからこそできるものだろう。

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そうした、「展望」の二文字を掲げて親の横暴に耐えていた。辛抱や苦悩を題材にした小説などを好んで読んだが、何の希望や展望もないにも関わらず我慢をして生きた人たちに頭が下がる。「女工哀史」や、「からゆきさん」の話からは、自分の労苦や我慢などは屁でもないのを知らされる。それもあって、人間が耐えることは人間のもっとも優れた能力だと思っている。

「信仰」や「宗教」を別にすれば、希望や展望なしに何かを耐えられる人たちについて、その人たちが何を支えにしたのかについての答えを未だ見つけていない。信仰を拠り所に耐えるというのは、自分にとっては人間的興味の対象外である。「宗教はアヘンである」という言葉がある。もちろん、敬虔な宗教者にとっては許されざる言葉、納得できかねる言葉であろう。

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信仰を旨とする人の思いはそうであれ、宗教を成り立たせる要素には神や霊魂がある。肉体が滅びても霊魂は不滅であるとか、天国や地獄には否定的だった。「ヒマラヤを黄金と化し、さらにこれを二倍にしても、一人の人間の欲望を満たすことはできない」と、こうした釈迦の言葉には耳を傾けるが、人間の身もだえから生まれる宗教それ自体に興味は沸かなかった。

人間の苦悩や身もだえに寄与する言葉が、宗教者であれ、賢者であれ、偉人であれ、隣の無学の老婆であれ、分け隔てなくとり入れる自分にとって、誰が言ったかより、何を言ったかが大事である。誰から授かろうとも心に沁みる言葉であれば権威の有無など関係ない。どの宗教であれ、神仏の愛顧を勝ち取るためにか、人間としての行動の正しさを要求する。

多くの宗教が教祖らの特殊な能力や予言に満ちた言葉が実しやかに伝わるが、それらとは異質の現実的な行動規範に関する説教のなかには、人間の生き方を正しくさせるべく一般的に通用する教えもないではない。立派な教祖と崇める信者は少なくないが、そうした耳障りのよい言葉を吐く教祖が美しいからといって、その宗教が無条件に美しいとするのはどうであろうか?

というのも、企業家や政治家がどんなに美しい言葉を吐いたとしても、実際問題として縄で後ろ手に縛られた企業家も政治家もいるように、彼らと宗教の教祖は同じ人間である。人間は言葉の生き物である。言葉と行動が違っても、それすら人間である。確かに信仰で変わったという人はいよう。ヒドイ人間だった自分だが、信仰なしで多少は変わったとの自覚がある。

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例えどのような模範的な実例があろうとも、信仰が幻想の上にある以上、根無し草のもろさを持っている。つまり、信仰というのは教祖がぐらつけばおしまいだし、元より悪くなる可能性もある。オウムのことを例えていえば、彼らが信仰によって立ち直った精神力や持ちえた新たな生き方というのは、信仰によって得た幸福な実例というより、むしろ不幸な実例である。

結局彼らは、根無し草程度の幻想しか頼りにするものを身近に発見することができなかったのだ。宗教以外の身近な事例をあげるなら、「玉の輿」結婚というのがある。「玉の輿」に乗っかることが女性にとって最高の幸せと誰がいったか、それにつられ、そのことを信じて、「玉の輿」に乗れる相手を探す女性はいるようだ。実際に見つけてたいそう自慢をした女性もいる。

資産家の彼だから、欲しいものは何でも買えて、家政婦付きの豪邸に居住できて、高価なおべべに身をまとい、高級車に乗って子どもを学校に送り迎えする。それを「玉の輿」というのだろうが、なんでも買えてなんでも手に入るという自由さとは、所詮は相手に依存して得ているもので、自身が主体的に持ちえた自由ではなかろう。依存の悲劇は相手の気変わりで一変する。

「玉の輿」婚そのこと自体を悪とは言わぬが、同じ自由とはいっても自由が生む悲劇も現実的に起こり得る。女は「玉の輿」と結婚するのではなく、男と結婚する純然たる事実。何処だかの資産家爺々に嫁いだ若い女が、夫が死んで後に期待すしたはいいが、「遺産のすべては県に寄贈する」という遺言書だった。「事実は小説より奇なり」というが、漫画より漫画的である。

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母親から離れることだけが自由であった自分の子ども時代はさて、とかく「自由」という言葉の響きからは、「好き勝手に生きること」だと勘違いする人間も少なくない。100人の人に、「自由とは何だと思うか?」と聞けば、面白い答えが聞けそうだ。「好き勝手に生きること」、「好き勝手な行動をすること」、「誰にも縛られないこと」などの答えが想像できる。

まあ、口ではいうけれども、人間が好き勝手に生きることも、好き勝手に行動することなどできるはずがないし、誰にも縛られずに生きていくこともできない。だから、本当にそれをやりたいということではなかろう。つまり、人間にとって真に自由などはあり得ないということになる。細かくいうと、世間の誰からも非難されず、法律からも制裁を受けずに生きられない。

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