昨日の記事の最後に自由について触れた。おそらく自由について書かれた書物は1000や2000冊どころではなかろう。根拠のない想像だが、人間にとって、愛と自由と死はもっとも関心の高いものであって、それらについて多くが述べられている。人間は愛がなければ生きてはいけない。にも拘らず人は人を心から愛することができない。そこで宗教が生まれるのではないか?
人間はまた自由が供与されなければ「生きた」とはいえない。自由といっても自分の自由と他人の自由がある。自分の自由が他人の不自由、他人の自由が自分の不自由であったり、これは人が人を拘束する状況であって、これを愛とはいわずエゴというが、人は人を束縛することで自由を奪う。自分に自由があるように他人の自由がある。他人と自分の違いに気づくのが大人。
人は他人の行動を自分なりに解釈するが、あくまでそれは自分が理解できる範囲内での解釈でしかない。だから、別の人間から見ると正しいとは言えない。お前の考えは浅いといわれることもあれば、間違っているといわれることもある。自分の考えを他人からそのように言われて憤慨する者もいるが、「なぜ浅い?」、「なぜ間違っている?」と問い返す者もいる。
問い返すことで相手の考えを聞くことができるが、憤慨すればそれで終わることになる。自分と他人は違うのだと気づくこと、認めることが大人の第一歩といったのは、異なる考えを聞こうともせず憤慨する人間は大人ではないことになる。他人はみな自分と同じように感じるはずだと思っているのだろうが、こんな考えでは世の中を生きていけるはずがない。
また、自分と他人は同じことをやっていても、その動機や目的も違っており、それを認めるところに自分の自由と他人の自由が存在する。同じ行為を自分の目的と同じでなければならないなどと、いちいち口出しする者がいるが、これも大人になりきれていない人間である。どういう目的で、どういう意図で、恋愛しようが結婚しようが、不倫をしようが他人の自由である。
タレントが偉そうに同業者をいたぶるのはどうなのか?「偉そうに」というのは言葉通り、「偉くないから偉そうにする」であって、自分はバカだといってるようなもの。一口に恋愛といってもその動機たるや幅が広い。孤独を慰めたい者、恋愛相手に母なるものを求める者、異性に性的欲求を求める者、純粋に愛を育もうとする者、これら自分と違う人は当たり前に存在する。
人間の行為の動機はさまざまでも、究極的に人間は自分が望むものを、恋愛や仕事や友情や結婚から達成しようとする。多くは無意識の範疇だが、意識の中に起こせばこういうことになる。「自分の自由は他人の不自由、他人の自由は自分の不自由」と述べたように、支配を基軸とする人間関係において、自由な関係とはいつでも壊れうる関係といえなくもない。
恋愛関係、夫婦関係、友人関係、いずれも壊れないのがいい、少しで長く続くのがいい、仕事場を変えないで長く勤めるのがいい、その他にも、「長いのがいい」というのが日本人の理想的な基本概念のようだが、「なぜ長いのがいいのか?」についてどう答えるのか?例えば親子関係について、子どもと親の成長スピードを考えてみるといい。明らかに成長速度は親と子で違う。
子どもはものすごい勢いで成長するが、ピークを越えた親に成長はなく日々後退するばかり。これはどういうことかといえば、年ごとに親子の関係は変化をすることになり、ついに子供は親から離れていく。こうした当たり前の図式が頭にない親は、子どもの心身の成長を喜ぶこともできないで、自分がどんどん子どもに置いて行かれるように感じるのかも知れない。
このあたりの人間の子どもへの執着心と愚かさにおいては、野生のライオンの方が賢いように見受ける。長く続く夫婦もいるが、それが普通であるとか、当たり前とかの考えに固執する時代は去りつつあるのか、破綻になるケースを異常とは考えなくなった。結婚に踏み切った時は互いが互いを理解できたとしても、努力の甲斐なく様々な理由で離婚に至ることもある。
友人関係や恋愛関係においても、自分のやることを相手が理解できないケースもある。理解できないだけではなく、苦情をいわれたり、制止を要求されたり、しかも強引に言われることになるなら、無理して関係を続ける必要はなく、友情の長さ、恋愛期間の長さを誇ることもない。互いのために付き合いを止めるべき。会社に長くいたからと、何で表彰されねばならぬのか?
「あれは我慢の表彰だろ?」という皮肉も分からなくもない。長く居ればいいってもんじゃないだろ、確かに…。転職を悪といわれない時勢において、長年勤続表彰は消える運命にある。自由の意味を別の角度でいうなら、自由とは壊れることを認めることでもある。若き五輪のメダリストも組織に長く君臨すれば老害でしかない。「長い」に自由がない状況はあちこちに存在する。
全ての「長い」を悪だといわないが、長きに及ぶ友人関係や結婚生活を終えるとき、いや終えたときに自由を感じるのは、そのことが如何に不自由であったかを示している。互いが互いを尊重し合う関係が長きに及ぶなら、それを良い関係といっていい。『愛は束縛』はサガンの小説。一度借りて読んだが、ピアニストの夫が資産家妻に依存しながら負い目を抱くストーリー。
負い目を抱きながらも妻を支配したい男の心理。妻は自身の境遇も夫の心理も理解しながら夫を束縛し続けていた。が、妻の根底にある心情とは、いつの日か夫は自分の財産を必要としなくなり、自分から離れていくのではないかという恐れである。金持ちで美人だが支配的で嫉妬深い女に、果たして男はどういう気持ちで接していくのか?幸せになりたいのになぜ二人は不幸なのか?
愛とは内面から湧きおこる心情であって、物質的な財産や、愛とは対極の支配や嫉妬というエゴが幸せをもたらすことはない。愛とは自覚のようで実は他人が感じること。愛し合っていながらも痛々しくも哀れな男と女は、愛という錯覚の中に生きているのだろう。ただひたすら女の顔色をうかがいながら、機嫌を取りながら生きる男がいる。それを女が望むからだろう。
当人たちはそれでいいと思いながらも傍からみると不幸でしかない。思うにこういう男は女に過大な期待をかけているからである。女に愛され、女にちやほやされることで自らが救われると錯覚している憐れな男。女に憎まれ、嫌われたら生きてはいけないと思う情けない男。行動の動機が自己の救済以外の何ものでないのを、身をもって示す去勢された男である。