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親子とは何か? 🈡

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親子に起こる問題は、世代断絶、価値観の違い・押し付けなどがある。さらには前記したように、15~20歳の子が5~6歳に人間として扱われるなど、ナルシスチックな家庭はこどもにとって牢獄である。「嫁にやる」という言葉も私有物的なニュアンスがあり、「嫁に出す」、「嫁つがせる」がいい。娘は一人の男と恋をするのだから、「やる」はいかにも傲慢な印象を抱く。

「親子の愛は美しい」と決められているのではなく、「美しいものになり得る」であるから、「醜いものになり得る」こともある。母親の愛も美しいものになり得る場合もあれば、この世で最も恐ろしい存在にもなり得ることもある。「指導死一覧」をみると、1955年7月5日に小学二年生(8歳)の赤田治男くんが、鉄道自殺を遂げている。8歳の学童が教師に叱られただけで自殺?

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当時の新聞記事によると、神戸市のある小学校で、学用品なを隠して遊ぶ、「かくしごっこ」がはやっていた。ある日、生徒が隠している現場を見つけた教師が朝の授業時間に、「平常こういういたずらをしてる人は立ちなさい」というと、12~3人が立ち、赤田くんもいた。教師は、「こんなことをする子はどろぼう学校に行きなさい」といった。赤田くんはこの言葉がこたえた。

帰り道に級友の修一くんに、「帰ったらお母さんに叱られる。もう死んでしまいたい。君も一緒に死のう」といい、たまたま突進してくる貨物列車に遭遇、「死ぬ、死ぬ」と叫びながら列車に立ちはだかり、跳ね飛ばされた。事件の新聞報道は先生の、「叱り方」を責めた。確かに、「どろぼう学校に行きなさい」はいかにもどぎついが、週刊誌に投稿したある教師の記事が目を引く。

「どこの学校でも行われている遊びや教師の叱り方より赤田くんが、『帰ったらお母さんに叱られる』と、母親をそこまで怖がらなかったら先生の叱り方だけでは、おそらく死んでいなかったろう。赤田くんは家に帰らなくて済むために列車の前に立ちはだかった」。自分も同じ考えにある。彼の最後の言葉は、「家に帰ったらお母さんに叱れる。死んでしまいたい」だった。

真相は分からないが、赤田くんの母親が、学校で叱られたことや、よそで犯したいたずらや過失や、その他にも赤田くんの不平不満や怒りや悲しみなどをなんでも話し合える、そんなやさしく暖かい母親でなかったのは事実で、むしろ、こちらの方が自殺の要因と考えられる。幼い子どもには、子どもの立場を理解し、尊重し、子どもの主体性を保護するのが親の役目である。

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赤田くんは優等生だった。ゆえに母親は優等生の暖簾に傷がつくことを怖れるがゆえ、赤田くんはプレッシャーに圧し潰された。彼がもし劣等生やいたずらっ子だったなら自殺はあり得ない。優等生の子は親が何を求め、自分に何を要求するか、どう管理されるか知っている。「あなたは母の顔に泥でも塗るつもりなの?」と説教されるのを怖れて死を選んだと見る。

こうしたクソ真面目で融通性の利かない母は、自らのこどもへの愛情ではなく、おそらくこのような言葉を躾の柱とするだろう。「お前がお行儀よくいいこにしていないと、みんなに笑われるのよ」。さらに実母を思い出せば、「お前のせいで親が笑われるんだからね」である。自分はこの、「親が笑われる」という言葉には怒りすら覚えた。「お前のせいで親が笑われるだと…?」

「だったら笑われるようにしてやろうじゃないか」となる。そうはいっても、ワザと悪事を働くとか、親が笑われるためにあえて法外なことをやるとかではなく、そんな言葉で規制をされてもまったく規制にはならなかったということ。「お前のために…」が嘘に聞こえ、「親が笑われる…」が知ったことではないとなると、親のこどもへの躾は崩壊しているといっていい。

それでなぜ不良にならなかったかといえば、不良がバカに見えたからである。不良たちがなぜ不良をやるのかを考えるに、彼らは自身がバカだと思って、だからバカな行為をするのだろう。つまり、バカに見合ったバカな行為をするのだろうと自分には映った。それが答えなら、「彼らはなんであんな行為をするのか?」という疑問は解消されたも同然である。

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成人式に大騒ぎをしたり、「族」にいう大音響で深夜にバイクを飛ばしたり、人に迷惑をかけることでしか、バカにとっての自己顕示はないということだ。やはり、バカでも人間は人から目立ちたいのだろう。自分はバカと見定めたものは徹底批判するとことがある。母親もそうであった。バカを批判しないで果たして批判するものがあるのか?そういう目だけは失わなかった。

軍人気取りの体育系バカ指導者どもが、脅したりすかしたりの指導がやっと問題にされる時代となる。遅きに失すが、犠牲になったものたちは多い。バカにはバカなりの指導法があるのだろう。星野仙一が鉄拳監督で名をあげた(?)ときも、どんだけ無能なバカ監督と思っていた。落合が監督に就任する際、鉄拳を一掃を決めたが、「五年かかった」と後に述べている。

日本のこどもの躾には、仲間外れや脅しなどがあるが、バカな親の常套手段でしかなく、そんなことでこどもの両目を失う事態があってはならない。傲慢・貪欲な親に我慢し、片眼を失いかけたこどもも憐れである。家庭で飼われる動物が、飼い主の言いなりになるのはバカなのか利口だからか?どちらにもみえるが、彼らはそのことを語ってはくれない。

基本的に犬は服従、猫は不服従といわれる。どちらも飼い主にとっては魅力となるが、犬と違って猫は飼い主を、「主人」とも、「親」とも思っていない。故に猫は本能のままに生き、「飼い主を喜ばせよう」、「褒められたい」などの気持ちで行動しない。人間はどうか?人間は服従か不服従かは本能支配ではなく、大脳の思考の領域である。つまり、利害優先に起因するようだ。

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それとは別に、反抗したいのにできないのは奴隷志向である。しかし、自由を獲得してきた人間の歴史をみれば分かるように、人間の歴史が不服従であるのはアダムとイブにまで遡る。神は二人に木の実を食べることを禁じた。アダムはその命を守ったが、イブは命を破り、アダムを唆して自身の不服従に加担させた。罪を分散しようとする女の企みが如実にでている。

とまあ、唯物論の立場を信奉する自分が聖書の話を持ち出すのも、例えとしての効用である。自分は自由主義者であるが、自由とは何かについては種々思考した。それで分かったことは、キリスト信者にとっての自由とは、聖書に従って生きることだということ。仏教者もそうであろう。自分いう自由とは宗教を遮断するのではなく、いいところ、よき言葉はとり入れる。

自由とは何か?幸福とは何か?それぞれ言われることはある。宗教的戒律はあっても信仰者にとってそれが自由である。信仰のない自分にも自由な「何か」の指針がある。「何か?」は「何だ!」と限定はできないが、人間個々はそれに沿って生きる。自由とはまた他者との違いを見つけることでもある。見つけて尊重すること。そういう大人になることも自由という。

仏教者のなかでも親鸞は自由な考えを持っていた。「念仏を唱えて死んだときの極楽をあてにする」という迷信にとりつかれず、支配階級からビタ一文の援助も受けず、寺院も建てずにひたすら大衆とのつながりだけで伝道生活を押し通した。だからこそ、支配階級の利害に奉仕することなく、働く農民の人間的な欲求を支持し、それを宗教的な言葉で代弁し抜いた。

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