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親子とは何か? ⑥

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親が子を大事にするということはどういうことか?子が親を大事にするというのはどういうことか?について考えてみる。良い上司というのは、部下の手柄を部下の手柄として賛辞するが、悪い上司は、部下の手柄をさも自分の功績のように上に報告する卑しい人間である。同じように、良い親とは前者に似たものがある。世界一のプレイヤーになった母の言葉を思い出す。

「わたしは彼を産んだだけです」。この言葉の意味するものこそ親の子に対する真の愛情ではないか。なぜなら、どんなに素晴らしい英雄を産んだ母親であれ、ただその子を産んだだけなら手柄でもなんでもない。両親がどんな子を創造し産むということは、両親の意思や努力に何の関係もないが、こどもを自由にし、理解もし、積極的に協力して支えたからこそ道は開かれた。

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これに疑いの余地はない。多くの精神的・物質的協力をこどもに与えたのも間違いない。にもかかわらず、「ただ産んだだけ」というのは、こどもが英雄になったのはこどもの意思と努力によって生み出された功績であるかのごとき振る舞いである。部下の手柄を横取りする上司ではないが、自分の手柄と言わんばかりの親はこどもへの愛情を超えた自己顕示欲であろう。

それでも収まりがつかないのか、本でも書いてしまおうとする。「我が子を誇りに思う」のと、「世間に自慢したい」のは何の関係もない。大坂なおみはこう述べた。「 お母さんはこれまでずっと頑張ってきて、私もずっとその姿を見てきました。だから私もお母さんが一息つけるよう、結果を出したいと思い続けてきました」。母を大事にすることがモチベーションとなっている。

「ママのいうことは絶対。だからママのいうとおりにやる」。この五嶋みどりの言葉とは似て非なり。自分にはまるでちがって聞こえる。大坂のポジティブなモチベーションに比べて、五嶋はネガティブなそれである。前者は愛、後者は義務。育ちの違いからくるこどもの差。自分の母も思うようにならないこどもに対し、「誰に産んでもらったと思ってるんだ!」を繰り返した。

この言葉が如何にバカげたものであるかは子どもですら理解する。この世のすべての子どものなかで、産んでもらうよう親に頼んだ子どもがどこにいる?いるわけないにも関わらず、そんな言葉を吐く親がバカであるのは間違いない。残念ながら早い時期に子どもから見放された憐れな母親である。親はこどもに尊敬はされなくとも、「バカ」と思われたらおしまいである。

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産んでもらったこと、育ててもらったことを無条件に感謝しろというバカげた説教をするなど、憐れを超えた情けない親である。育ててもらったことには、道徳的な感謝もないわけでないが、本来は産んだものの責任で、「した」、「したくない」の問題ではなかろう。それらから、子どもを産み育てる一切のことを、「恩着せがましく」いったり、感謝要求などはあさましい。

男の子の心を知らないで育てる母親は多い。男の子を知らなくても育てられるが、あまりに男の子を子ども扱いすると、いつしか男の子が怖くなるほどに立場が逆転することがある。こういう場合の多くは、男の子が母親のバカげた言葉に我慢を重ねた結果で、自我が芽生えたころに爆発したとみる。「小さい頃はいい子だったのに、今は怖い」とこぼす母親はこういうタイプ。

誰だって小さい頃はいい子で、反抗せずに親に盲信する。だから自我が芽生えた「反抗期」というものがあり、その時に対処を誤ると男の子はとんでもないことになることがある。男の子は論理的に物事を考えるので、ごまかそうとする親に不信感を抱く。男の子の疑問には理屈が必要だから、逃げずに論理で誠実に対処する。母親にできない場合は父親に委ねるのがいい。

親の言うことを聞く子を良い子、そうでない子を悪い子とみるのは親の都合であるから、このことに固執する親からスケールの大きな子どもは育たない。「親のいうことを聞く子がいい子」ではなく、自己意識を持ち、目標や価値観を抱いてそれに向かって自発的に行動する子を親は望むべきだが、以下は男の子の心象を現した事例であり、親の言うことは絶対という時代のこと。

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発端はというと、男の子が便所に行くときに母親が、「紙は持ったの?」と声をかけたが、そんな些細なことだった。その時のことをこう記している。「私は癪に触った。馬鹿にするな、便所に行くのに紙を持たぬものがいるか。このことだけではない、何かにつけて子ども扱いされることにむしゃくしゃするものがたまっていたのであろう。思わず私の返事の声が大きくなった。…」

自我を意識するところまでの成長前にあっては、親の利己心との衝突は起こらないが、自我が芽生えた時期に親は子ども扱いを止めるべき。結局、「親を大事にする」ということは、親だから問答無用に大事にするのではなく、自分が大切にしたい気持ちが自然に発露するような親であるべきである。親孝行は義務でもなければ強要されるものでもなく、自発的なものでしかない。

大坂なおみ選手は日本人であるのかないのか、そういう議論を何のためにするのかの賛否はあってもいいが、親の育て方と育った環境が性格に影響する。彼女のインタビューの受け応えがチャーミングという指摘があるが、そうした表層的なことより印象深いのは、思ったこと、感じたことを素直に言葉に出すところ。これはやはり日本人の女の子にはない資質であろう。

彼女は、よそ行き言葉を言わない、意識もしない、いい子ぶらない、これを言うべき、これは言わぬべきという作意が感じられない。これを世俗用語でいえば、おりこうさん的な受け応えをしないということか。ではなぜ日本人がおりこうぶった物言いをするのかといえば、自分がみられているという意識が強いからで、だからありのままの自分を出さないし抑制する。

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大坂なおみは自分がみられる意識で受け応えをせず、自身が主体的に相手を見ている。相手を見すえて自分をどう表現するかの受け応えである。彼女から受ける自由さには、"いいこぶる"の発想がない。誰の前であろうと自分は自分、だから自然に自己表現するというのが外国育ち。これを世俗的な言葉でいうなら、形式主義よりも実体重視の考えによる生き方であろう。

少し難しくいうなら、日本人の生活様式に固有な、個人的衝動をきびしく抑圧するものがない。日本人がそうなのは常に他人を見て暮らすからである。他の面でも幼少時期から学校などで規律を重視され、がんじがらめに縛られることで、抑圧は無意識に子どもたちに内面化されていく。規律が人間にもっとも強く感化を及ぼすのは、三つ子の魂というように幼年期である。

その後は、だんだんと個人的創意が認められ、自制的規律を遵守するようになる。したがって、もっとも自由でのびのびした幼少年期に過度の規制や不自由を強いられると、こどもの自由な創造性は喪失し、大人がみてちゃんとしたおりこうさんに変貌する。表面的な変貌ならまだしも、中身まで塗り替えられた子は、二度とない自由な時期を逸し、企画化された子羊となる。

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