こどもに見透かされるのは憐れな親である。一言一句のすべてをこどもに読まれていながら気づかぬ親は、親として機能していない。「本当にお前のためを思って言ってる」は親の常套句だがダメ教師も多用する。強調するところに信憑性がない。本当にこどもを思ってかどうかの判断はこども自身が感じることだから、押し付けるより真心を持って接すれば伝わるだろう。
自我を抑えて親におもねるそんな心の弱い子は親の強権によってそのように育った。50代になって初めて親に逆らったという教師がいた。彼は親に反抗しない人間が立派と信じていた。反抗期がなかったのではなく、反抗期を悪として抑えていたことで、自我が真っ当な成熟をしなかった。こうの人と話すと分かるが、自我を抑え、自己を抑えようとするのがよくわかる。
相手に反論するようなことは絶対にしない。相手に異論を唱えて自己を主張したい場合でもそれをしない。それでどうなるか?相手は憤懣を別の人間にぶちまける。ぶちまけられた人間が、自分に教えてくれる。「〇〇がお前のことに腹を立ててあれこれいってた」。自分の前ではいい子をしているが、腹に一物である。本人には言わず、裏では歯ぎしりするタイプは結構いる。
おそらく親に反抗しなかった子、もしくは自分を抑えて人から良い人間と思われたい性向である。上辺と本心がまるで違う人間信用できない。「〇〇がお前の悪口をいってた」と他人から聞かされる場合の多くは、自分の前ではそんな素振りを見せないのが多い。こういう人間とは疎遠になるのが一番。悪口が嫌ではなく、信用できない人間の最たる者で避けるに限る。
本当は嫌ってる人間の前で、「お前は嫌いだ」という態度や素振りを見せない人間にどういう態度で接するかは人それぞれだ。自分はこのようにいう。「お前は俺のこと嫌ってない?当たってるなら遠慮しないでいい。好き嫌いはあっていいし、無理してもストレスたまるしな」。人が誰を選ぶのも避けるのも自由だから気にしないが、思いや意思を表示をできない者もいる。
上記言葉は、そういう人間への思いやり。だからか、嫌味でなくさらりというのがよい。言われた側は大概否定をするが、否定の仕方をみれば程度もわかる。「ごまかしても感づいている」という態度を見せておくのも思いやりだ。おそらく親の接し方、環境で、「いい子」は作られるのだろう。大事なことは自らの気持ちを正直に出させ、それを受け入れる親のキャパが求められる。
「嫌なことは嫌だ」。こどもにそれを封じる親はいる。親はこどもの嫌なことを抑えつけるところがあっても、「嫌だ」という言葉すらを言わせないようにすると、こどもの精神は自己分裂をきたし、挙句は破綻するかも知れない。嫌なことでもやらねばならぬことは世の中多い。ならば、「嫌だ、嫌だ」と口にしてやるのが自然だが、エゴイスティックな親はその言葉さえ封じる。
今の親は、「それが親に向かっていう言葉か!」などというのだろうか?これは親に対する口答えや反抗を戒める躾言葉だった。自分たちの世代は当たり前のように言われた言葉だが、言われてどう感じたかの小学生ころの記憶はない。「お母さん」と呼んだのは3年生くらいまでと記憶する。毎日が言い合い・喧嘩だから、「ババ~」や、「クソババ~」が常套句だった。
親の言葉が嘘だと分かっていても言い返すとは限らない。言い返さない子だからといって、ちゃんと伝わってると思うのはマヌケな親。子どもが言い返さない理由はいろいろあって、聞いたふりをしておくのが得と思うのは、言い返すとその倍の言葉が返ってくることを分かっているからだ。言い返さないからと自分のエゴをこどものためと押し付け続けるとどうなるか?
こどもはそういう親を疎ましく思うようになり、言葉に耳を傾けなくなる。前記した親の専売特許言葉の、「お前のため」、「将来のため」などを乱発しすぎると、こどもに見透かされ、終には見下される。だからか、私心を持たぬ親なら、「お前のためを思って…」などを口にせずとも思いは伝わるもの。言い返さぬをいいことに子を侮った親の結末は火を見るより明らかだ。
こどもに背かれる親は、背かれるべくして背かれるが、親の身勝手な都合で強引にこどもの方向性を決めるなどすれば、余程洗脳された大人しいこどもは別として背かれぬ方がどうかしている。ただ、親の言いつけを守る子、親に反抗しない従順なこどもを良い子と感じるのは、親が権威を意識するからで、それが、「産んでやった」、「育ててやった」という言葉にでる。
ボブ・ディランの『時代は変わる』の歌詞、「国中の母親、父親たちよ、聞いてほしい。あなたたちが理解できていないことを批判してはいけない。もし、手を貸せないというなら、せめて邪魔だけはしないで欲しい」にいたく感動した。ところが後年、ツルゲーネフの『父と子』を読んだときに、ディランもこの作品を読んだのだろうと感じた。そこにはこう書いてあった。
「私には倅の言ってることや、やってることについて、何ひとつ理解してやることはできなかった。しかし、父親としての私の唯一の誇りは、倅のすることに対して、何ひとつ邪魔をしようとしなかったことだ」。そっくりそのままディランの詩に被る。親の誇りとは、原則として子の邪魔をしないこと、子のしたがることの援助をすること。つまり、子どもの主体性が先にあること。
それがなぜに「誇り」であるかを説明する。「子どもが親の理解できないことをやって、それで子どもを信頼せよといっても無理だ。こどものすることに盲信していては親の責任が果たせない」という考えが一般的で理屈は通っている。が、親の責任というのは、子を信頼に値するような人間に育てあげることであり、親が理解できる範囲の善人に仕立てるのではない。
親が安心できる範囲の行動につなぎとめたりすることではない。ところが保守的な母親はアレスチックに行っても、「これは危ないからダメ」、「これはいい」と支持をする。こどもは親が怖がるものを怖がるように、臆病な母親が臆病なこどもを育てる。母親が家庭を牛耳ったことで、脆弱で臆病でヘタレな男の子が増産されたのか。「リスク回避」を主導した結果である。
「親の心子知らず」というが、「子の心親知らず」といわない。これも親の権威性を示すもので、たいていの親は子の問題に絡んで自分が被害者だと思っている。しかしほとんどの場合、子の被害の方がはるかに大きい。周囲や誰かから「過保護では?」のアドバイスを受けようと、親という名の「老人」たちは、ちょっとやそっとで自分の過ちを認めたり、改めるようなことはない。