この世の物すべてを解明して人生を終えたい。というような大それたことを願うほどにマヌケではないが、身近な問題に思考が及ぶのは生きてる証といえる。生まれたときから自分に指示命令をし、立ちふさがる得体のしれない親とは一体何なのか?自分が親になってみれば多少の理解はあるが、受けると与えるでは根本がちがい、受けたものの辛さが消えることはない。
親子の愛情というのは血のつながりに根差すものではなく、親と子らしい生活関係から生まれてくるのは疑いようのないこと。こんな想像をする。生まれた子どもを捨ててどこかに行ったとする。数十年を経て成長した息子に会い、「お前の父だ」といいたいものか?相手も迷惑だろう。それが親子か?どこが親なのか?血がつながりか?で、それが何だというのか!
他の男がどうかは別にして自分的にはあり得ない。先にも書いたが男親ってそういうもの、身勝手を超えて自己断罪に生きるもの。生き別れの息子を遠きから眺める母の思いは分からぬでもない。一目会いたい気持ちも分からぬでもない。陰から眺めるのはいいが、子どもの前に現れ、「実の母ですよ」などの行為はすべきでない。子どもに何の得があるかを考えるなら…。
「生活のつながり」による、自然的・必然的に母子の愛情が芽生えるのは何ら不思議でない。「産みの親より育ての親」というくらいだ。ここでこんなことを書かずとも、誰もが育ての親の慈愛に一票投じるだろう。『海街 diarly』という映画を観たが、面白いから二度も観た。吉田秋生原作のコミックの映画化で、親に見捨てられ、親なしで生きる三姉妹の設定がユニーク。
神奈川県鎌倉市で暮らすそんな三姉妹の元に、15年前に離婚して家を出た父の訃報が届く。長女の幸は次女と三女に葬儀に出るよう頼むが、幸は自分たちを捨てた父を許せず葬儀には出ない。ところが葬儀当日になぜか幸は現れる。そこで中学1年生の異母妹・浅野すずと出会う。三姉妹はすずを鎌倉に呼び、一緒に暮らそうと提案、すずもそれを受け入れ、4人の生活が始まる。
そして一年が経ち、父の一周忌を鎌倉で行うことにした。今度は実母の都が北海道から駆け付ける。こども三人を捨てて男を作って家を出た母である。長女の幸は自分勝手な父も母も許していない。死んだ父と言葉を交わすことはできないが、葬儀に出席しないことで反抗の意を露わにしたのだった。母とは久々の対面だが、幸は母の一切合切が気にいらないのか激しく遣り合う。
都:(鎌倉の近所の大船に住む叔母(父の妹)との会話) 実はこの家を思い切って処分しようと思ってるんだけど…。庭の手入れだって大変でしょう?この娘たちだっていずれはお嫁にいくことだし。(おそらく家は父名義のままか、母名義に書き換えたのかはともかく、母の勝手な言い草にキレた幸が鬼の形相で母に食って掛かる)。
長女:「勝手なこと言わないでよ。お母さんにこの家のことをどうこうする権利なんかないでしょ?庭の手入れなんかお母さん一度もしたことないじゃない。この家捨てて出て行ったのに何いってんの!」
母:「なにそんなにムキになってんの。ただ、どうかな~って思っただけなのに」
叔母:「はいはい、もうやめましょうね」
母:「どうしてあんたはいつもそういう言い方すんの?悪かったと思ってるわよ。でも…、もとはといえば、お父さんが女のひと作ったのが原因じゃない」
次女:「ちょっともう、ふたりともやめなよ」
長女:「お母さんはいつだってひとのせいじゃない。私たちがいるから父と別れられない、おばあちゃんがダメっていったからあんたたちを実家に連れていけない」
母:「だってしょうがないじゃない。ホントのことだもん」
長女:「いい年してこどもみたいなこといわないでよ」
叔母:「ふたりともそれでおしまい。さっちゃん、言葉が過ぎるわよ。仮にも母親じゃないの…、都ちゃんも女を作られるのはあんたにも悪いとこあったのよ」
母:「だって…」
叔母:「だってもなにもありません。この話はこれでおしまい。兄さん死んでてよかったわ、もう、なさけない」
そもそもこの映画はバルザック風喜劇である。父がこども三人を捨てて家を出、父の再婚相手のこどもを呼んで4人で暮らす。そこに同じように子どもを捨てて北海道の実家に帰った母が現れる。妹たちを親代わりに守り育てきりもりした長女にすれば、こんな身勝手な親は火あぶりにしても気持ちは収まるまい。そんな幸は妹たちに対し小姑のようにうるさくなってしまう。
「事実は小説より奇なり」というが、是枝監督はドキュメンタリー出身だけあって、場面のカットもセリフもリアルで細やかで才能を感じさせられる。こんな身勝手な親ならいない方がマシ、子どもだけで生きていける。「親はなくても子は育つ」というが、親不在のこどもたちだけの生活を是枝は、親がいないからこそこどもたちが情緒豊かに育ったといいたげである。
2008年に起きた四川大地震のときに、中国人カメラマン・鄒森(ゾウ・セン)さんが撮影した、「母愛・地震」と言うタイトルの写真が話題になった。作品は翌年の中国国内の報道写真のコンテストで最優秀報道写真賞を受賞している。母親と9歳の娘は倒壊した自宅の下に下敷きになり、その後救助隊員が8時間かけて掘り起こしたものの、残念なことに二人はすでに亡くなっていた。
よくみると母の手には一膳の箸が握られている。これは地震発生時に母と娘は食事中だったと思われる。母親は箸を置く間も無いままに娘をかばったのだ。これが自己犠牲的母の愛なのか、子を持つ母の当たり前の行為なのか、どちらであったとしても美しいものは美しい。母として当たり前の行為というなら、それを本能的母性愛というが、父であっても同じ行為をするに違いない。
親子関係がもっとも美しいと説いたのは誰なのか?確かにその手の話は多い。子どものころに読んだ『野口英世物語』では、囲炉裏でやけどを負った息子の母の寝ずの看病場面は今でも脳裏に焼き付いている。美しい母物語は、他にも何冊か読んだが思い出せない。美しい親子愛があるのは認めるが、親子関係こそがもっとも醜い事実は、先に述べた他人でないから起こる。
美しい親子からも、醜い親子からも我々は学べばいいのである。良いこと、悪いこと、美しいこと、醜いこと、これらは天が決めたことではなく人間が決めたこと。子どもは無知で未熟であるから、子どもの良心形成の多くは、親から教わらねばならない。悪口好きな母親が、平気で他人や父親の悪口をいうとどうなるか?試してみたいならやってみるのがいい。
そんな母親の結果はこどもに現れる。試さなくても知るのが知識である。人をいじめる子も親からのストレスを受けているという。どんなに母親が悪口好きでも、善悪を書籍や道徳から身につけた利発な子は、不甲斐ない親に批判を向けるが、子どもの多くは親の言動を踏襲するものとされている。したがって親は、子どもとの関係において、自分を抑制しなければならない。
何をおいても子どもに対しては、自身のむき出しの醜い欲望は抑えるべきだが、思慮ない母親、感情むき出しの母親は、自身の欲望をさらけ出す。親がこどもに自己抑制すべきかを経験的にいえば、子どもに親の心を見透かされるからである。であるなら、「これはお前のために言ってる」などといったところで、子どもは親の都合で言ってることを見透かしている。