9月8日(日本時間9月9日)に開催された全米オープン決勝でセリーナ・ウィリアムズ選手を破り、日本選手として初の四大大会制覇を果たした、大坂なおみ選手。20歳の王者は、試合後、母の元へ駆け寄り、抱き合って喜びをかみしめた。大坂選手は2017年のインタビューで、これまでの人生でもっとも影響を受けた女性は?という質問に、迷わず「お母さん」と答えている。
「お母さんはこれまでずっと頑張ってきて、私もずっとその姿を見てきました。だから私もお母さんが一息つけるよう、結果を出したいと思い続けてきました」。
「お母さんは、私のためにたくさんの犠牲を払ってくれました。母は普段、あまり試合は見に来ないんです。だから私の試合を応援することは、母にとって本当に大きな意味があるんです」。
今回の全米オープンはしこりを残したいわくつきの大会だったが、セリーナが審判に吐いた暴言は、彼女がナーバスになっていたとしても、聞くものに不快感を与えたのは間違いない。女子テニス界の第一人者でもあり、もちろん大人でありながら言ってることは、まるで子どもがダダをこねているような言葉だった。特に情けないと思ったのは以下の発言である。
「他人(男子)ならよくて、なぜわたしが同じ振る舞いをするとダメなの?」とあの場で男女差別を主張するところではなかろう。男子がよくて女子ならいけないではなく、どちらが行ってもよくない行為である。女子がやるとヒステリックされるのは、「ヒステリックに寛容であれ!」と主張している。審判を脅かすような行為に審判が怯まなかったことが審判の正しさである。
テニスに限らない。何か注意を受けたときに、必ずといっていいほど、「みんなやってるのになぜ自分だけいわれるの?」という人がいる。ほとんどの子どもはこういう言い方で逃れようとする。大人も同様に、自己正当化と責任回避をしたいのだろうが、この言い方はまさにその人の性格を反映している。子どもじゃないなら、この言葉か適切かどうかを考えるべき。
大坂なおみの母は娘と抱き合ったときに耳元で、「あなたを誇りに思う」といったという。2014年ことはスポンサーもなく、試合に必要な飛行機、ホテル、遠征先の食事代一切は両親が支えたが、携帯電話をねだると、「賞金で買いなさい」と、そんな母であった。当時、日本のテレビ局の取材では、「私のやることは娘に何を食べさせるかくらいしかありません」と言っていた。
確かに大坂なおみには父も母もいた。母は料理でサポートしたように、テニスを始めるきっかけを作った父でさえ、世界一になった娘の前にでることもない。親としてこれほど誇らしいことはないだろうが、「あなたを誇りに思う」と娘に伝えるのが愛情であろう。テレビにでたり、本を書いたりで、子どもの手柄の一分にでもあやかろうとするのは愛ではなく自己顕示である。
こどもがなにがしか成功したとして、親がちやほやされていい気分に浸るのを悪いとは思わぬが、そのことがこどもにプラスになることはなにもない。例えば五嶋みどりの母の五嶋節。彼女の『「天才」の育て方』という著書のタイトルからして、天才を育てたという自負がある。親がこどもに何をするのも親の特権だが、五嶋みどりを憐れに思ったのは他者になる以下の記述である。
「みどりも、自分が母親にとって必要な人間だということがわかっていた。両親がうまくいっていないこと、自分がいなければ母親は生きていけないことをこども心に感じていた。このため、どんなに厳しくてもバイオリンは一生懸命に練習した」。これは読むに耐えない事実であるが、親がこどもの人生を搾取し、こどもがそれを了承したということが自分的に憐れである。
節もあきらかに幼児虐待と感じながら、結婚の後悔と夫への不満という私的なストレスをこどもに向けていたが、結局それで天才を作ったという自己完結が慰めとなっている。そうでなければ惨めな母子であろう。もっとも自分は五嶋みどりが天才として育てられたとしても、人生を搾取されたこどもにとって、親の敷いた道を歩んだという点において不幸だと思っている。
人間はこの世に生を受けて以降、個人として生きていく上で自己を取り巻く幾多の障害がある。それに邪魔をされ、押し込められていては、自身の「生」という固有の恵みを賜わったことにはならない。誰だか失念したが世界的なテニスプレイヤーの母が、メディアから何かを問われた際、「わたしがしたことは彼を産んだこと。ただそれだけです」といったのが印象的だった。
世界一ににでもなれば、言いたいこともあろうし、多少なり自分の手柄と感じたいこともあろうが、それらは一切こどものプラスにならぬことを分かる親をスケールの大きい親と感じる。五嶋節は自己顕示欲丸出しだが、大坂なおみの親は至極控えめである。石川遼の父も早くから息子に自伝を書かせ、記念館を建てたりの自己完結が、息子にも自己完結をさせたのか?
東大医学部三兄弟の母もチャラい母である。自分が社会からちやほやされることはあっても、こどもに何の利益があろう?どんな事由で東大医学部に入ったなどは内部の者にとっては関係ない。母親の努力で入ったから称賛されることもない。狭くひしめき合った競争社会は陰湿だ。「君があの有名なマザコンなの?お母さん、随分はしゃいでるね」などといわれることもあろう。
他人を認めない、蹴落とそうとする社会でそんな風な皮肉は日常である。母親の一言一句が知られることは、冷やかしの材料でしかないなら、学内の息子にとってプラスになることはない。彼女の自己顕示は満たされても、「恋愛禁止をよく守ったよな~」など、皮肉の種がいいとこだ。そんなことで目立つ必要はなく、実体として何も分からぬ方が色眼鏡で見られないで済む。
親がでしゃばらず、陰で子を支えるのが愛情であって、自分がちやほやされたいのはただの自己顕示欲とみる方がわかりやすい。思い余った息子から、「母はそこらの普通の母と同じで、自慢をしたいだけなので大目に見てほしい」などの声をあげさせている。いかに自分が自己完結したとしても、成長途上こどもの将来を考えるのが愛情なら、自分の手柄などどうでもいいこと。
親が自己完結の様相を見せればこどもにも伝わろう。難しいことではない、親はこどもの幸せだけを願って、自分の得点をあげたいために周囲に自慢することはやめるべき。こども自慢=親自慢ではなくこどもの幸せを節に望む。それを大坂なおみ母娘の抱擁に感じた。あの母も苦労しただけスケールがでかい。それこそ、「わたしはなおみを産んだだけ」と言いそうだ。