煩わしいほどに存在感に満ちていた母は、存在感を出しすぎることで返って迷惑がられるものかも知れない。子どもに覆いかぶさったり、畳みかけることのなき母は、広く、深い、海のような愛情に満ちた母なのかも知れない。思うに自分の父の愛情とは、隠匿された羞恥なものだったに感じる。露骨でこれ見よがし的なものでは決してない、それが父親の遠見の愛情なのかと。
印象深い父を思いつきであげるなら、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンかも知れない。コゼットの養父として彼女のためだけに生き、最後は自ら役目を終えて離れて行こうとする。母親の近距離的くっつく愛に比して、遠距離的で離れようとする愛であろう。物語の最後の場面は謎である。コゼットの結婚式に参列したバルジャンは、夫のマリウスを呼んでこのようにいう。
「どうか私の話を最後まで聞きなさい」。そう述べて一方的に話し始める。マリウスはただ聞くしかない。「私はコゼットの実の父ではない。私の本当の名は、ジャン・バルジャン、元囚人だ。私はパンを盗み、19年間服役し、その後、再犯で終身刑の判決を受けた。戸籍もない」。マリウスは驚き、「どういうことですか?」と問うが、「黙って聞きなさい」とあしらう。
「10年前は知りもしなかったコゼットが、今はかけがえのない存在だ。だが、私の役目はもはや終わった。コゼットを頼む。60万フランを君のおじいさまに預けてある。決して汚れた金ではない。コゼットの持参金だ。私の話はこれですべてだ。もう二度と会うことはないだろう。さとうなら」。そういってバルジャンは去っていく。バルジャンの後ろ姿にマリウスは、声高に叫ぶ。
「なぜだ…。なぜ、話したんですか!」。マリウスの問いにバルジャンは振り向くが、何もいわず去っていく。象徴的なこの場面は何度も考えさせられた。が、そのたびに考えは二転三転し、堂々巡りになる。が、一つだけ確実に言えるのは、これが父親というものであろう。象徴的な父を具現化するとこうなる。ともかくバルジャンは自分にとって理想の父親像である。
手元に置いておきたい母の愛と異質な離す愛、離れようとする愛こそ父親であろう。「私はコゼットの父ではない」。これをコゼットの口から言わせたくない。だからバルジャンは言ったと思っている。バルジャンが言っておけば、コゼットから聞いた時の動揺は緩和されるばかりか、コゼット自身の心の負担も緩くなる。そうしたこと一切を先取りした男の愛情である。
囚人であった過去をいう必要があったのか?幾度となく考えさせられたその結論は、いう必要がある・ないとかを超えた、単に事実の提示である。人が幸せにならない事実は黙っておくべきと言ったが、幸せの尺度という相手のキャパの問題であり、バルジャンは、マリウスを大きな人間と見立て、信頼したと見る。何を言っても受け入れられる器の男という確信である。
自分もマリウスをそのように見ている。貴族の家に生まれながらも親に甘んじることもなく依存することもなく、政治的信条を抱いて国家に反逆するような青年である。バルジャンはそうしたマリウスをずっと見て知っていた。バルジャン的な生き方をした人間から見れば、立派な信条をもった青年である。危機に及んでマリウスを助けたが、マリウスはそのことを知らない。
バルジャンのマリウスへの告白は2:45:25あたりから…
小説でありフィクションだが、Ⅴ・ユゴーはマザコンであったことが知られている。その理由は父が軍人で家庭に不在がちであったことが原因といわれている。少年時代は疎遠であった父ジョゼフとの仲もだんだんと親密になっていく。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これを契機にナポレオンを次第に理解し、尊敬するようにもなる。
「父性原理」、「母性原理」というのはどういうものであろう。父性原理を端的に、切断する原理、母性原理を包み込む原理といわれる。また、寛容と許しの母性原理、規範と筋目の父性原理ともいわれる。双方はバランスをとってこそ正しく機能するが、こんんちでは、社会的・文化的にも父性原理が弱体したために、母性原理は歯止めを失って肥大化してしまった。
茨城の妻殺し夫が、母親と自宅の庭に死体遺棄というあり得ない事件が起こったのも、母性原理の肥大化現象であろう。本来ならば、息子に事実を打ち明けられた母は、夫に相談すべきである。その結果、庭に埋めることはなかったと思うが、夫にバレないように行動したというところに息子は母の物という独善がある。「夫にバレないように…」とは、やるせない時代である。
父親権威の衰退とその帰結は、父親の機能さえ奪ってしまっている。「亭主元気で留守がいい」という標語に象徴される妻の心情とは、息子を独占することであろうか?家に金は入れても、子どもに口出ししないで欲しいということなのか?そうであるなら、母親は子どもを社会的な人間にすべく何をやろうとしているのか?子どもの社会化には父親の機能は必要である。
詳しくいえば、社会構造と個人を仲介する役割としての父親の存在であり、そのことでいうなら、子どもを社会構造に適合するように、教育・指導をし、社会に送り出すといういわゆる社会化としての人間育成に役割を担うのが父親である。父親の機能などというのは、ほとんどがそこに集約されているのではないか。父親がそれ以外に子どもに何かやることがあるのか?と自分は考える。
意識したこともない父親の機能だが、確かに無意識で行ったことといえば、子どもが母親に甘えて入り浸ることを抑止することが任務と意識していたのかも知れない。子どもは母に甘え、母自身も子どもに甘える。つまり母親は子どもに甘えさせていることで実は子どもに甘えているのだろう。それを制止するのが父親の役目であり、家庭を統率する権威者としての任務である。
子どもが母親へ愛着を抱くのは悪いことではないが、それを阻むことも子どもが成長するための課題的なものと考えられる。いわゆる、世の中そんなに甘くないとか、すべてが自分の思い通りにならないとか、そういう役目は父親にはうってつけでなかろうか。もっとも、子どもべったりの甘い父であっては、それこそ父親としての機能障害である。父は法でなければならない。
子どもは親の監視下において、すべきこととしてはならないことの区別を明確に学習しなければならないが、それは母親には荷が重い。父親こそ子どもに理性的判断による命令を与える、超自我として機能せねばならない。それで子どもが父親に尊敬の念を抱く場合もあるが、不快な服従を強いられることで、不安や敵意を感じることもある。これがエディプスコンプレックス。