子どもの攻撃対象は母親より父親であるべきで、古来より「厳父慈母」の在り方は、役割分担としての父・母である。誰に指導されたわけでもないが、子どもにとって超自我的な存在としての父親を自分は演じていた。ダメ人間の自分は理想的な父親を演じる以外にないという自覚があったのが幸いした。役者としての能力が問われることにはなるが、相手は子どもである。
ライオンの父と母がそのような役割分担をしているかどうか分からないが、そうした明確な区別を子育てに活用しているなら、それは演技ではなく本能であろう。残念なことの本能が壊れた人間にとって、子どもの攻撃対象を母親から父親に集中させるための象徴的な焦点として父親は、考えて実行しなけれなできるものではない。本能の壊れているなら思考でやればよい。
そのような子どもが攻撃性を向ける対象を分離する方式は、人類に与えられた見事なる工夫といってよかろう。子どもに、「パパとママとどっちが好き?」そんなことは母親に言わせておけばいいのであって、父親が子どもを母親と奪い合うなどはあまりの幼稚な親父である。そんなでは威厳も失墜するどころか、「友達父さん」なるインポテンツな父親である。
様々な父親像があろうから、自分の理想とする男性的権威としての父親機能を活用を背景にした父親としての任務・役割に批判はあろう。あってもなくとも、自分はこのようにやる。母親を中心とした家庭にあって、オブザーバ的な父親機能は、最初から作らない。世間だどうであれ、昨今の父親がかつてのように社会統制の担い手としての役割を期待されていないことが問題である。
日本が学歴社会を信仰原理とするのは社会病理でしかない。これが一向に解消できないのは、国家の無策と急成長した受験産業と文科省の利害に基づく太いパイプがあるからだ。さらには父親の人格的権威の衰退に加え、非人格的な組織的な職業的権威の増大という温床も背景に見え隠れする。「お父さんのようになったらダメでしょ?」と父親を貶す母親はいるのだろう。
「お父さんのようにならないためにしっかり勉強しなさい」と子どもに伝える母(妻)を、作ったのは誰だろうか?子どもに向かって、「お母さんのようなバカ女になってはダメだよ」などという思慮無き父親はおそらくいない。「妻は元気で留守がいい」などの標語も聞いたことがない。何故、父親ばかりがそこまで愚弄されなければならないのか?その理由は分かっている。
女がのさばり、思慮無き女性たちが世に蔓延した。こういう言葉を口にして楽しむバカ女を傾国の愚妻という。自分の選んだ伴侶をボロカスいうのは、選んだ自分をボロカスいうのと同じであることに気づかない。人の存在自体を美しいとせず、学歴・職業差別で父親の威厳を摘み取る妻は子どもを傷つける。自由・平等は間違ってはないが、箍が切れた女性こそ困りもの。
てなことを書いてはいるが、世直し奉行を気取るつもりもないし、社会という大きなうねりの中で何かを変えようなどは幻想である。ブログの基本は自己主張であるが、自己主張を上目線と批判する人は、世の中を常に下から眺めていればよかろう。一家言とは、世の中の毒をあぶりだすことかも知れない。親の毒、男の毒、女の毒、それら一切が社会の毒、人間の毒であろう。
「毒をもって毒を制す」というが、この慣用句は好きではないのは、悪に対して別の悪で対抗する、悪人に対抗するために他の悪人を用いることが短絡的にみえるからだろう。ヤクザが、銀行や企業などで雇われていた時代があった。毒には毒の彼らは、必要悪といわれていた。「毒をもって毒を制す」が嫌なら毒に何で対抗する?いろいろあるが、毒だけは避けたい。
身近な、「毒」はいろいろある。例えば、「毒親」に毒で対抗できるのか?はて、毒親に対抗する毒とは何であるか?あるなしも含めて自分には思いつかない。かつて毒親にどう対抗したかを上手く言葉では言えないが、人の力を借りることはなかった。自分が依存を嫌うのは自力を信じるからで、それを自信という。とにもかくにも自分を信じる。上手くいこうがいくまいが自分を信じる。
人に頼んで上手くいくはずはないと信じる。その精神が自力を育てていく。将棋をやっていて思うのは、すべてのことが自己責任である。ミスも含めて言い訳の利かない世界ゆえか、何処にも言っていくところがないのは楽なことでもある。言い訳など考える必要のない世界に身を置いている。「往生際の悪い奴」というが、往生際が悪くて、往生するわけがない。
往生には単に死ぬという意味もあるが、死刑執行の際に大暴れするのも無駄な抵抗だが、暴れて10分寿命を延ばしたいのも人間か。自分の命を見切るというのは大変だが大事なことだ。万策は尽くすべきだが、「万策尽きた」と感じたら、此の世に名残りを惜しむよりも自然の摂理に従うべきである。あの世を信じない自分だが、その時は父の元に召されたいと願う。
死とはこの世に生を受けたことへの感謝の集大成である。誰もが死ぬわけだから、如何に生きたかが大事となる。出世や成功でもなく過ちを犯さなかったことでもない。過ちは誰もが犯すのだから仕方がない。大事なことは、自分が犯した過ちのために柔軟にして強靭な心を失うことだ。暗い所にいても絶えず太陽の方に向いて伸びていく向日葵にように居れたらいい。
「修証一如」という禅の言葉がある。どこかの額か掛け軸で見たのが最初と記憶するが、長い間意味を知らないでいた。いや、知ろうとしなかった。いつだったか知ったときは一つ知識が増えたと感じた。経の最初は、「如是」の言葉で始まるが、仏教とは結果を示したもの。「如是我聞」という言葉は太宰の評論にタイトルで知った。「修証は一つである」は本当か。
修行は悟りのための手段ではない。修行と悟りは不可分で一体のものだと道元はいう。我々は悟りを開くために修行する。試験に合格するために勉強するように、目的をもって邁進するのがいいと言われる。ならば、熱心に修行を重ねていた僧が悟りを開かぬうちに死去した場合、それまでの僧の一生は無駄なのか?勉学に専念しても大学の試験に落ちたら勉強は無駄だったのか?
林竹二もこう述べる。「何等か目的のための勉強ではなく、勉強のための勉強であるべき」と。これは、「坐禅は坐禅なり」と同じことで、「何のために坐禅をするのか?」という問いの答えである。目的が適えられなった場合、やったことのすべてが無意味というのはどこかおかしい。受験勉強を努力というが、受かれば必要のない勉強を強いる社会こそが問題である。