父について書こうと思うが、母のときのような書きたい何かが父にはない。書くことがないではなく書きたいことがない。母と比べて書きたいほどの何かが父にないのも理由だが、父が何であるか実はよく分からない。昨今の家庭は母中心で成り立っているといわれている。他人のことはよく分からないけれども、家庭を牛耳っているのが妻であるような感じは伝わってくる。
夫や父親の権威が喪失した時代といわれて久しい。男女平等、夫婦対等が、権威的な父親を追いやったのだろうか?権威とは平等の中には存在し難いものかも知れないが、権威とは無理に作り出すものでもなく、自然にふるまう夫や父に存在するものに思える。夫婦の相性とでもいうのか、夫や父親に権威を許さない妻・母親が増えたのか、男が権威喪失した理由が分からない。
戦後に強くなったものは、「女と靴下」などと言ったが、男が弱くなったことで必然的に女が強くなったのか、女が強くなって男が弱くなったのか、そこは謎だ。自分の男的な部分しかわからないので、男が弱くなった、女が強くなったというところも自分にとっては懐疑的である。「日本の男たちに今、何が起こっているのか?」は文献から社会学的な知識を得る必要がある。
そのあたりも含めて近年の男や、家庭の中での父親の現状と家庭内における父親の本来的な役割や、父親が子どもに与える影響力について考えてみる。「父親は一家の大黒柱」といわれた時代から一転、粗大ごみとされてしまった。本当にそういう家庭は多いのか?その前に父が何かを解明するためにはまずは自分の父が自分にとって何であったかを振り返ってみる。
思えば父は「安らぎ」であった。顔を合わせば何かとこと細かに吠えまくる母という家庭にあって、ほとんど言葉を交わすことのない父の存在感は自分の中に大きな要素を占めていた。分かりやすい例でいうなら、チワワやスピッツなどのキャンキャンうるさい小型犬と、吠えることのないシェパードやゴールデンなどの大型犬との存在感の違いといえるかも知れない。
母親がなぜあれほど子どもに密着するかは、「母とは何か?」の記事で詳しく述べたが、こうした母性原理は大人になって得る知識であって、子ども時代は口うるさい母でしかない。「母親とはこういうもの」だというのを理解し、許容する子どもなど世界のどこを探してもいないだろう。「子どもにあまりうるさいく言ってはいけない」という自覚があってもできない母。
父は安らぎであり、救いであった。ああいう母だから父はそうしていたのか、元々そういう人だったか分からないが、両方からうるさく攻められていたなら、自分は獄舎に繋がれていたかも知れない。チワワ母にはシェパードの父が子どもを救うことになる。父のやすらぎ…、子どもへの影響力はあまりなさそうだが、父の機能的な面における重要性について言及したい。
父から何を授かりどういう影響をうけたのか。自分も父をやりはしたが、子どもにどういう父であったのかは知らない。父親より母親のことの方が分かる部分が多いのは、子どもに与える影響力という点で、比較にならぬほど母の問題点が多いからだろう。父親の権威失墜が言われて久しいが、従来の権威的な父親イメージに代わる、新しい父親像が創造されているのだろうか?
「父親なき社会」というのは本当だろうか?そういう社会であるべきなのか?もはや父親に権威は必要ないのか?父不在の家庭環境を男の体たらくとし、いい状況とは思っていない。したがって自分の理想とする父親像を書くにあたって時代錯誤的批判もあろうと、自分のブログは自身の意見の場。自分が父について何を書くのかまとまってはないが、だらだら書いてみる。
「毒親」という言葉がブームになるほど、現代の児童や青年たちの精神病理を生んだ背景に潜む社会病理(母親の病理)というものが、母の強大さからもたらされたのは間違いない。父権の弱化、父親機能の喪失といわれているこんにち、こうした現状を改善するかの国家的施策はとられなかった。旧民法下の家長制度が改まり民主的になったのは時代の進歩である。
時代の進歩とともに問題も生まれる。少子化の原因は様々あるが、昔のような子だくさんの家庭と現代が根本的に違うのは、子どもの数の多い・少ないだけでなく、少なく生んで大事に育てようとの価値観から、母親の子どもに対する過保護・過干渉という問題が生じている。子沢山の家庭が基本の時代、親は子どもに手をかけてはいられず、兄弟間の自治も自然に芽生えた。
四人の子どもを持った自分は、そのことをハッキリと主張できる。つまり、兄弟間の自治というのを間接的な躾と考えるなら、親による直接的な躾以上に効果があったといえる。兄弟間の自治というのは、上の子を親がキチンと躾けていることで、楽ができることになる。子どもが一人、多くて二人という少子化時代の問題点は、上記した親の過保護・過干渉は否めない。
正直いえば自分は子どもが好きでなかった。理性の欠片もなく、泣き喚く子、ぐずったりゴネたり、甘ったれて何様的な態度や、親を奴隷扱いするような特権意識は許せない愚行に思えた。だから、そんなことは絶対にさせないように心掛けた。からだろう、子どものそういう場面は見たこともなかった。母親に何事かグズるときは、「お父さんに言いなさい!」で終わる。
子どもが母親にグズる場合の盾になったといえば聞こえはいいが、そうではなくて、グズる子どもが許せなかっただけのこと。グズらない子どもを作る父親が自分の理想の父親であり、理想と描いたものは実践で可能となる。何よりも大事なことは、子どもに好かれたい物分かりのいいお父さんには批判的で、それがグズらない子どもを作るために必要なことでもあった。
おかげで母親はうるさくまとわりつく子どもを経験してないし、大いに楽をしたことになる。すべてのことは、「お父さんに言いなさい!」で解決がついた。家庭も最小単位の社会である以上、それぞれが好き勝手なことをしていては破綻する。当時は、「ホテル家族」という言葉が言われていた。ホテルに居住するように、それぞれが好き勝手な時間を個々で所有する。
風呂に入る時間もまちまち、食事も家族揃ってではなくバラバラ、リビングに集まっての団欒もなく、各々が自室で好き勝手に過ごす。果たしてこれを家族というのか?なぜにそうなるのかを、「ホテル家族」の実践家庭に聞いて、「なるほど」と実感した。ようするに子どもたちが、「〇〇しなければ…」などの意識や切迫感がない。親が躾けなかったからである。
家族が順繰りてきぱき入浴すれば自然と習慣になる。父が入り、子どもが順番に入って最後に母が入る。時間制限はないが、お湯が冷めない原則に従えば、自然と行為されること。ところが「ホテル家族」の家庭では、「お風呂にはいりなさ~い」と子どもに命じても入らない。「後で入る」の我がままを許せば、その子は夜中に入ったりする。湯が冷めても関係ない。
最近の浴槽は追い炊きができ、親も躾が緩くなるのか?時代が便利になって躾も合理性に負けてしまうが、これは親のだらけでもある。シャワーだけであろうが、追い炊きであろうが、生活習慣というのは親が誘導的に決定できるが、それをやらないから、「ホテル家族」に陥る。決まりというのは、何も厳しいことではなく、慣れてしまえばそれが生活習慣となる。
子どもの躾は几帳面な親だからやれる。何より親がキチンとやることだ。食事も全員が食卓に着かなければ始めないようにすればよい。家族はバラバラであるより、まとまりが必要となる。すべては親の意識の問題だ。長女が修学旅行で食卓にいなかったとき、「なんか変…」と次女がいったが、同じように皆が感じていたことだった。慣習とはそういうものかも知れない。