男が女を分からないように女も男が分からない。分からない同士が一緒に暮らしていく。さらに、男は父、女は母という肩書きがつけば、謎は深まるばかりとなるが、先に述べた曽野綾子の発言なども顕著な一例である。あれだけのことを雑誌上で臆面なく発せられるのは、母親の強さという以外になかろう。「母よ、あなたは強かった!」の言葉を贈っておこう。
ヤクザの強さとは、いつ死んでもいいとの肝いりからくる何をも恐れぬ強さである。曽野綾子のような著名人であれ、人が何と思おうとなりふり構わぬ母の強さであるが、子どもを溺愛するあまりにバランスの欠いた過度の愛はエゴイズムであろうから、賞賛というより皮肉を込めて言う。男親にはこれほどの盲目的な愛はどこを探してもない、血肉とかけ離れた愛情である。
母親の子への愛は無条件であるがゆえに美しい反面、その強烈さのあまりに子どもの自立を阻む側面もある。皮肉を込めてといったように、同じ人間として崇拝できる母の愛とは思っていない。自分が強いと思う母親像は、『手巾』という芥川龍之介の短編に出てくる。「手巾(しゅきん)」と読むがハンカチのこと。ハンカチとは「handkerchief (ハンカチーフ)」の略。
「kerchief」は女性が髪おさえに被る布のことで、首に巻けば「neckerchief (ネッカチーフ)」となる。以下は芥川の『手巾』のあらすじ。「アメリカ人女性を妻を持つ長谷川先生が自宅のベランダで読書をしているとき、あるご婦人が家を訪ねてくる。先生にお世話になった、「西山憲一郎の母」と名乗るご婦人は、息子が腹膜炎のために亡くなったことを報告する。
先生は、特段悲しむ素振りも見せず、涙をためて話すでもなく、声も平生どおり、口角に微笑さえ浮かべているご婦人のことを不思議に思っていた。通常なら感極まって同情を求めるような母もいないではない。ところが、ふいに団扇をテーブルの下に落とした先生が、それを拾おうとしたときに、偶然婦人の膝を見る。すると、婦人の手が激しく震えているのに気づく。以下は原文。
感情を露わにせず、慎ましく隠そうとする強さである。「昨日が、丁度初七日でございます」というように、息子の死を実感できる年月も経っていず、他人に告げただけで悲しみに襲われる。「この婦人の態度なり、挙措()なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。憲一郎の母の態度は、自分の息子の死を語つてゐるらしくない」と先生も訝しさを感じていた。
「この婦人の泣かないのを、不思議に思つてゐるのである」(原文)。とある。先生は後に妻にこのときの一部始終を話して聞かせ、「日本の女の武士道だと賞讃した」。この母は、息子のすべてを包み込むことができる。まさにユングの、「グレート・マザー」である。この度合いの強い母親ほど子どもを、「独占・束縛」する傾向にあるが、母は己の心に息子を永遠に独占する。
人間は何でできているのか?卵子と精子の合体というよりも、人間の多くは母からできているのかも知れない。親の呪縛から抜け出せない娘はいるらしい。最近観た山本文緒の『群青の夜の羽毛布』もそれだった。娘の恋人と肉体関係を持つのは男も男だが、そのことをあえて娘に告げる嫌味な母。こういう母は、娘の苦悩が刺激になるという、根が意地悪性向であろう。
娘を愚弄する意地汚い母。女も分からぬが、それ以上に母なるものはもっと分からない。理解不可能な、「母なるもの」の例として以下の情景を挙げてみる。「ママ友の娘がブスすぎでジロジロ見ちゃった。ブサイク旦那に似て豚鼻、糸のように細い目、デブ体型をジロジロ見ちゃった。ママ友の娘は怖がって帰るー!帰るー!って泣いてた(笑)」。これは実際の投稿である。
よくも平然とこういう物言い(投稿)ができるものかと呆れを通り越す。このような嫌味な悪口をいい合う女の日常会話は、ともすれば男の前でもいったりするようだ。もし、自分の前でこのようなことをいえば、「つまらんことをいう女だ。口でも縫っとけよ!」くらいはいいそうだが、それも若いころのこと。今なら顔を見るのもうんざりとさっさと立ち去る。
人を口汚く罵る女の悪口言葉の才能は男にとって驚きである。相手を口撃する言葉を本能的に生み出す素質というしかない。昔はなかった言葉に、「ワンオペ育児」というのがある。ワンオペレーションが語源で、ファストフード店やコンビニエンスストアなどで一人勤務という過酷な労働環境を指す言葉。仕事・家事・育児のすべてをひとりで回せば母親に負担がかかる。
夫が非協力的でワンオペを強いられる場合と、我が子を自分だけが占有したい場合とある。後者のような母は、「私の子に手を出さないで」という気持ちに満ちている。子どもを生み育てることは、その子の健康と幸福を目的とすべきであって、親の何かの目的を実現するため道具ではないが、そういう母親の存在がある。子に勉強を強いたり、ステージママも同類の語源か。
こういう場合、夫は蚊帳の外で黙ってみている場合が多い。その家庭の問題だから善悪を他人が言ってもしかたないが、あまりに子どもへの思い入れが強いと、つい夫不在感を夫にさえ抱かせてしまう。夫を孤立させるだけでなく、子どもに夫のつまらなさやダメ加減を吹き込む典型的な悪妻もいる。自分の母は、父親の悪口を自分に言うことで、自分を取り込もうとした。
男にはあまりない女性的なものを感じる。例えば、A子とB子が仲良しで、B子はC子とも仲が良い。それが不満なA子はB子を独占するために、C子とB子の仲を裂こうとする。そのためにC子のあらぬことや悪口をいう。結構耳にした話で相談も受けたこともあったが、A子が強引な性格の子だったら、「C子と私とどっちをとるの!」などと露骨に言ってきたりする。
男からすれば、よくもこんな羞恥なことが言えるものかと笑ってしまう状況だ。「こんなときどうしたらいい?」と問われても、バカバカしいと思うなら本人が解決するしかなかろう。「女は面倒臭いよ」という女性も少なくない。男にも似たようなことをやんわりいう奴もいるにはいるが、意図の醜さ丸出しである。「誰と付き合おうが勝手だろ?」とハッキリ言えるのが男の世界観。
「そんなくだらん事を言うな!」と水を差す意味もある。母親が子どもに入れ込むのはいいとして、だからといって夫をないがしろにしたり、尊敬も愛情も持たない母親は、何らかの点で子どもを傷つけるというが、父の悪口が日課だった母に対し、傷つくどころか母を見下していた。女性のヒステリーは夫や子どもに対し、順調な愛情を持てている場合は発症しないという。
「悪口をいったら嫌われる」。そのことを知る女性はいる。「愚痴をいうと嫌われる」など言う女性もいる。それでも悪口をいい、愚痴を言うのが女性のようだ。人前で公言したことは、口先まで出かかっていても止める…、という理性が感情に押し殺されるのか、一言に対する認識度が甘いのか、それらも女性の分からぬところ。は男社会にあって、「男の一言」は重い。