メラニー・クラインという女性の精神分析家は、人間の発達を母子関係を中心に細かく研究している。クラインは子どもは母親に対して憎しみと恐怖を持ち、母親も息子に憎しみを持つ場合があって、母子に激しい愛憎の葛藤世界があることを分析し、指摘をした。クラインと同じ人格形成過程における母子関係研究に、古澤平作の、「阿闍世コンプレックス」がある。
「阿闍世コンプレックス」は、西欧的な父親型エディプス・コンプレックスに対し、日本的な母親型コンプレックスで、『阿闍世物語』という仏教説話からコンプレックス理論のモデルを創案したのは、これまでの日本の精神医学にはない独自性である。古澤はウィーン精神分析研究所に留学したとき、フロイトを訪ねて、『罪悪意識の二種』という論文を提出している。
論文には母子関係に潜む、「阿闍世コンプレックス」の原型が暗示され、この段階での古澤は、「エディプス・コンプレックス」に潜む特色として、「恐れ」と、「赦し」が表裏一体となる日本人の精神構造に着目、これを、「エディプス・コンプレックス」の別のバージョンとして取り上げた。そこには母親コンプレックスの萌芽を問うというアイデアからの認識を示していた。
「阿闍世コンプレックス」は、日本人にとっては普遍的ともいえる母子関係の原型を提示するが、古澤の理論をさらに発展させたのが門下の小此木啓吾である。小此木のいう母子関係には、第一に理想化された、「母なるもの」との一体感と、その一体感を求める、「甘え」があるとされる。第二に、母との一体感が幻想であったことの幻滅とともに激しい怨みが生まれる。
第三に、真の、「母なるもの」に立ち返った母は、自分に怨みを向け自分を殺そうとした息子を許そうとする。息子もまた、母の苦悩を理解し、怨みから許しへと向かおうとするなど、互いの相互作用に行き着く。この三つの心理的構成要素からなる複合体を、「阿闍世コンプレックス」といい、こうした深層心理を我々は家庭内暴力などの事象で日常的に体験している。
不登校と家庭内暴力はセットの場合もあれば、不登校で部屋にこもっただけの子どももある。母親にすれば、なぜ不登校?なぜ家庭内暴力?などの原因を探っても問題解決はない。娘の不登校と家庭内暴力に悩むある母親は、新興宗教関係者から、「現状は水子の霊が馮いているからであり、拝んで供養する必要がある」といわれ、信者となって子どもの登校を祈った。
以下は母親は水子の霊についての告白である。「私は結婚する前に好きな人がいました。その人とはどうしても結婚できない関係だったのですが、妊娠してしまい結局悩んだ末に堕胎しました。その子の供養を今までしていないそんな過ちが不登校と家庭内暴力なのでしょう」と母親は言う。そうした罪の意識を宗教にすがることで自らへの救いを見出しているのだが…
阿闍世王が殺し、母親を殺そうと思い殺し得なかった罪に苦悩するように、阿闍世を高楼から生み落として殺そうとして殺せなかった罪に韋提希夫人が本当に気づいたときはすでに人生の晩年に近づいていた。そんな彼女にどのような救いの手が差し伸べられるというのか。現代において、阿闍世の苦悩を救い、韋提希夫人を悟りへと導くためにすべてを許し包むこむ仏陀釈尊とは?
どのようなものか?可能であるのか?宗教に救いを求めた母親は救われるのだろうか?信ずるものは救われるという宗教において、言葉上は信者は全員救うことになるが、供養や祈りで不登校や家庭内暴力が解決するなどあり得ない。「必ずノーベル賞を取る」と語っていた東大卒の豊田亨死刑囚は、まじめな性格が災いし、オウム教団内では次第に危険な思想に染まっていった。
豊田は教団の反社会的な側面を知った時、「我々は極めて危険なことをやろうとしているのではないか」と思ったというが、教団幹部の村井秀夫に、「危険なことはやりたくないと考え、尊師の指示に従わないのは自分の煩悩であり心の穢れである」などと言われて、疑念を封印してしまったという。教団や教義に疑問を感じたとしても、その考え自体が心の穢れと抹殺される。
「いや、穢れてはいない。自分はまともであんたたちがオカシイ」といっても始まらない。「水子の供養と不登校と何の関係もないでしょ?あなたはもっともらしいことをいうが、気は確かですか?」などと言えないのは、救いを求めているからだ。言わなくても信じなければいいが、黙っていると信じたことにされる。もし、宗教がバカみたいと思ったなら遠慮すべきでない。
イスラム教がキリスト教を、天理教が創価学会を批判するように、宗教の本質は排他的である。だから、信者批判ではなく、宗教自体を批判・排除すればいいのであって、天に唾を吐こうが神を茶化そうが、神社の境内に小便をかけようが、災いが起こることはない。災いは現に何の罪なき人に降りかかっている。事実、麻原をバカと思った者は救われ、信じた者は死刑となった。
宗教を信じるのと親を信じるのとどこか似ている。宗教を信じるのは御利益に預かりたいからだが、親を信じるのは何だろうか?こんな母親なんか、絶対に信じられないと思った自分だが、親を信じて疑わない子は、御利益を信じるからか、それとも親だからという妄信なのか、そこは自分には分からない。問題は信じるに値する親かどうかであり、その見極めが子どもにできるかである。
「親は信じるべきなのか?」という問いに答えはない。信じてよかった、信じて心が荒んだ、そうした答えは何年か先にもたらされるからだが、そうである以上、信じるべき親かどうかの決断は、今、この場でなされなければならない。親によって正常な心を育めなかった子が何年か後に、「毒親だった」、「ヒドイ親だった」といったところで、すべては遅きに失すである。
同じような毒親経験を持った人たちに共感したり、拠り所に自らを癒したところでどうにかなるものではない。映画『グッド・ウィルハンティング』の主人公は最後にセラピストから、「君は悪くないんだ」の言葉をかけられ、親の呪縛を解いて旅立って行く。映画はそこで終わるが、それ以後に彼が新たな自分にどう向き合って生きたのか、都合の良いところで切れる映画は便利である。
が、同じ境遇にある者、心に病を抱く者たちへの暗示にはなろう。暗示は大事である。精神科医やセラピストは病む者の呪縛を解き、暗示を与えるのが彼らの仕事である。細かく生き方をサポートする場合もあるが、逐一寄り添ってはいられない。新たな生き方に向かうのは自分である。なぜ毒親を信じたか?人は信じて拠りかかるものがあること自体が幸せだろう。