Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

母とは何か? ⑤

$
0
0
親が我が子に夢を抱く程度の親バカは非難されることもないが、子どもに自分の幻想を押し付ける母親こそが問題となる。夢と幻想の差は何か?ということではなく、母親自身が望んで果たせなかった夢を子どもに託すのはいいとして、そのことの実現のために強要するというのは、多少なりどの親も経験があろうとも、あまりに度が過ぎれば子どもの心が歪むことになる。

親が子どものために我を忘れて必死になることを、子ども自身が感じている場合はまだ救いがあろう。なぜなら、子ども自身が母親の願望に応えようと従うにせよ、反抗するにせよ、子ども自身が選び取ることができるという意味での救いである。問題なのは親に嫌われたくないがために、反抗ができないままに不条理な従属を強いられる、いわゆる「いい子」タイプの子ども。

イメージ 1

母親自身ですら子どもが素直に従うさまを、傲慢さと気づかない場合もあり、このことが親子の一つの悲劇だろうか。母親の病理というのは様々な観点から現れるが、その背後にあるものは個々によって異なる。女にできて男には絶対に不可能なのが子を産むことだが、女が母親になることは女性にとっての第二の誕生といわれ、女性として真に成熟することでもある。

男が父親になったことで急激に成熟することは経験からしてもないが、「父なるもの」を目指して、「父なるものに」なろうと様々に知識を得たり、自己変革に試みたり、責任感を認識したり、その程度の成熟は必要なこと。昭和40年代にヒットした流行歌に『こんにちわ赤ちゃん』というのがあるが、曲を初めて耳にしたとき、なんと微笑ましい歌であろうと感じた。

NHKの人気バラエティー番組『夢で逢いましょう』の今月の歌コーナーで紹介された。永六輔作詞、中村八大作曲の、「六・八コンビ」になる楽曲である。曲のエピソードとして中村の第一子生誕を機に永が作詞したというから、パパの心情を歌詞にして中村にプレゼントした曲だった。それが梓みちよという歌手に歌われることとなり、歌詞をママの心情に直されたという。

が、歌詞をママの心情に直したからといって、ママの心情を表現できていないのは、男によって書かれた曲であるからだ。演歌には女性を心情をうまく表現した歌詞が男によって書かれているが、これらは男の女性への願望や理想が根底にあると思われる。出産の実感となると、こればかりは女にできて男に絶対できないことで、産むだけでなく体内に宿す実感も含めてである。

イメージ 2

『こんにちわ赤ちゃん』も明らかに男の感覚と感慨が、ママにすり替えられた歌であろう。子を体内に宿した母(正確にはまだ母ではない?)は胎動を通して、「わが子」との様々な交流が始まっている。それゆえに誕生直後のわが子と対面で、「こんにちわ、赤ちゃん」、「初めまして、わたしがママよ」などの挨拶をしたり、名乗ったりするよう仲ではないのではないかと…

男の感覚で母親の感覚を想定してなぞった歌であり、「初めまして、僕があなたのパパですよ」という心情に合致するもの。おなかに宿した時点で女性は疑いのない「母」であろう。産んで母とは法で定めた母である。この曲を与えられた当時10代の梓みちよはどう歌っていいのか困惑し、永六輔に聞いたところ、「考えなくても女性は本能で歌えるよ」となだめられたという。

世界で初めて妊娠した男性と言われているトーマス・ビティさん(38歳)は、これまで三人の子を産んでいる。何だと?ケツの穴から産んだというのか?とおもいきや、2002年に性転換手術を受けて男性となり、戸籍上は男でも女性の生殖器官はそのままに、妊娠が可能な状態だった。なるほど…、(法的な)男が出産したといわれても(実態は女だから)驚くことではない。

女は子を宿した時から母であるなら、男はいつから父になれるのか?自身の経験でいうと、父になった実感はかなり遅いものだった。種を蒔いてはみたものの、実が大きくなるのは視界的なものだけで、子どもが育っている実感はお腹のふくらみ以外にない。ある日突然腹がしぼんでに外に出てきて、さあ、これがあなたの子どもですよ、といわれても…、男にとっては躊躇いである。

イメージ 3

だからか、「こんにちわ、赤ちゃん」という挨拶になる。おむつ替えや入浴は苦手だから母まかせで、苦手な抱っこも数回程度という薄情な父に、父の実感がわかないのも無理からぬこと。したがって、父と認識したのは、歩いたり、食べたり、笑ったりの人間らしさを感じるようになってからと記憶する。「父らしさ」というそれは、父親としての出番のことを言った。

実感あっての自覚である。乳児は6か月を過ぎると母親と見知らぬ人を区別し、いわゆる、「人見知り」をするが、子どもにすれば家にいる見知らぬおじさんだったかも知れない。「グレートマザー」なる概念を導いたユングも、「より一般的な母親元型の考察を基礎にしなければならない」として母親元型の特徴を、「母性」と捉え、その特性を以下のように表現している。

「まさに女性的なものの不思議な権威。理性とはちがう智恵と精神的高さ。慈悲深いもの、保護するもの、支えるもの、成長と豊饒と食物を与えるもの。不思議な変容――再生の場。助けてくれる本能また衝動。秘密の隠されたるもの、暗闇、深淵、死者の世界、呑みこみ、誘惑し、毒を盛るもの、恐れをかきたて、逃げられないもの」(ユング著『元型論』)。

こうしたイメージには、「やさしくかつ恐ろしい母」という両面が定式化されている。「守り育む(慈愛)」、熱狂的(激情)、冥府的(暗闇)」という、この3つの本質的な面が指摘されているように、ユング心理学の立場から母子関係を思考すると、フロイト学派のいう、「子どもの問題はすべて母親個人の子どもに対する対応の仕方による」とみなすことはできなくなる。

イメージ 4

「私は幼児の神経症の原因を探るときにはまずは第一に母親を問題にする。なぜなら、子どもは神経症的にではなく正常に発達するのが一般的である。第二に、ほとんどの場合に、障害の明確な原因が両親の側に、特に母親の側に確認され得る」とユングは述べている。精神科医は様々な患者の治療を行ってきているが、以下の事例は母に怯える成人女性の夢の内容である。

「夕方、家中がシンとして誰もいないので怖くなって居間に行くと、母親が一人ぽつんと背中を丸めて向こうを向いて立っていた。近寄ると母親が振り向いた。母親は何かを食べていて、見ると生焼けの鳥の股肉のようで、それはピクピク生きていて、口の中は血だらけだった。歯で骨を噛み砕く音が聞こえ、母の笑う顔が不気味で、驚いて目を醒ましました」。

彼女が突如として体験した母は、彼女の母ではない。まさしくユングのいう母親元型よって布置された、「恐ろしい母」である。自分に背を向け、知らないところで恐ろしいことをしている母、残忍で不気味な薄笑を浮かべる母である。彼女は自分もああやってバリバリ食べられる感じがしたという。この女性は治療のさ中、「母が怖い」、「母に殺される」と怯えていた。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles